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ラカンと文章に関するsuna_zuのブックマーク (2)

  • メビウスの自閉、あるいは残酷演劇

    メビウスの輪を考える。とっても簡略的に。参考として挙げておくならば、中沢新一著『芸術人類学』において、レヴィ=ストロースの神話公式に関連して提示されているものが近いだろうか。わたしの文章ならばこれ。 たとえば、自閉症者であろうが、分裂症者であろうが、「自閉」という共通する症状には、二種類あるのではないか。種類分けするのもバカらしく無意味な区分だと自分で思うが、垂れ流す。 メビウスの輪のねじれ部分は、特異点であるが、固定化されない。角度によってその位置は変わる。だから、これから述べる区分にはほとんど意味がない。最初にこう書いておけばなんとなく意味ありげに書けるだろう。動機としての言い訳だな。 見かけのねじれ位置から、輪として遠く離れた地点での自閉と、ねじれに近いところにある自閉。さっきも書いたようにこのねじれは移動可能だから、この二種の自閉には違いがないと言える。でも続ける。 前者の自閉は、

  • ■ - 偽日記@はてなブログ

    ●渡部直己による斉藤環批判、『徴候としての「批評」』(文學界2月)から感じた、ちょっとした違和感を巡って。 ●言語が作動する時、そこには常に原初的な対象関係(母親との関係)や象徴界への参入時における外傷が呼び出され、「愛(依存と支配への欲望)」や「幻想」(症候)が起動するというような精神分析の言い分は妥当なように思われる。(例えば樫村晴香によるこの論考(http://www.k-hosaka.com/kashimura/tinou.html)を参照されたい。)しかし同時に、「文学」がいつも「精神分析」を簡単には承認せず、そこに根拠を見いだすのに抵抗し、それに批判的なのもまた当然であろう。文学は、精神分析が見いだす重力=外傷(「愛(依存と支配への欲望)」や「幻想」)に対する抵抗、あるいはその解体(脱構築)としての、高度な言語的パフォーマンス(実践)としてあるとも言えるのだから。そこには、あく

    ■ - 偽日記@はてなブログ
    suna_zu
    suna_zu 2016/02/22
    科学的-分節的な言語で対象関係(愛や幻想)という重力を対象化する精神分析的な知の言説(分節)/「愛」や「幻想」を積極的に起動まみれただなかで「解体(脱構築)」「別のもの」へつくりかえ切断する文学の言説芸術(作品)
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