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ブックマーク / aburax.blog80.fc2.com (7)

  • メビウスの自閉、あるいは残酷演劇

    メビウスの輪を考える。とっても簡略的に。参考として挙げておくならば、中沢新一著『芸術人類学』において、レヴィ=ストロースの神話公式に関連して提示されているものが近いだろうか。わたしの文章ならばこれ。 たとえば、自閉症者であろうが、分裂症者であろうが、「自閉」という共通する症状には、二種類あるのではないか。種類分けするのもバカらしく無意味な区分だと自分で思うが、垂れ流す。 メビウスの輪のねじれ部分は、特異点であるが、固定化されない。角度によってその位置は変わる。だから、これから述べる区分にはほとんど意味がない。最初にこう書いておけばなんとなく意味ありげに書けるだろう。動機としての言い訳だな。 見かけのねじれ位置から、輪として遠く離れた地点での自閉と、ねじれに近いところにある自閉。さっきも書いたようにこのねじれは移動可能だから、この二種の自閉には違いがないと言える。でも続ける。 前者の自閉は、

  • フェティシスムとひきこもり または「スキゾ的仮面」を被る若者たち

    今更ながら、こちらのブログに掲載されている斎藤環氏の「脳はなぜ心を記述できないか」講演レポートを読んでみました。 やはりひきこもり専門家である斎藤氏ですから、ひきこもり関係の言葉には重みがあります。講演レポート4になりますね。そこから一部抜粋します。 ===== ひきこもりの人は、想像的なレベルでは社会参加できていないけれども、象徴的なレベルでは社会に参加させられていると言えるかもしれない。 ===== 単純に社会参加=去勢の承認と言えるとは思いませんが、そうだとするなら実はこれフェティシスムの精神分析的構造と全く同じなのですね。 フェティシストは想像的同一化と象徴的同一化の狭間を生きています。象徴的去勢は承認し、想像的去勢を否認しているのです。 自らの想像的ファルスをフェティッシュ(フェチの対象)に換喩し、自らを「部分的に」対象aに移行させて、象徴的思考の中のある「待ち合わせ場所」におい

  • 鏡の国の定型人

    なんでだろう? なんでみんな知らないのだろう? 好意的に解釈するなら、なんでみんながみんな忘れてしまっているのだろう? と当に思う。 わたしは、華厳思想が表現する極楽を知っている。知識としてではなく、実物として、実世界として、知っている。実世界なのだから、極楽などではない。生きながら生きられる世界だ。これと比較すると、日常的な現実など、死にながら生きている世界に過ぎないとわかる。ただ、前者は苦痛を継続的に伴い、後者はゆりかごの中のごとく楽に生きられる世界ではあるが。それについては後で述べる。 また、この文章は、華厳思想を信仰するものなどではない。単にそういう実世界があることを、わたしは知っているという話に過ぎない。わたしにとって、それは肉眼で見た世界である。現実である。 目の前にある現実を否定するほど、わたしは狂っていない。信仰で事実を曲解するほど、狂っていない。再度言う。わたしは狂って

  • 感情開放

    わたしは演劇で役者の稽古をすることにより、怒涛のように周りの空気が読めるようになった、とここで書いた。 身体的な訓練によるものではあるが、理屈的なところで、この「怒涛のように周りの空気が読めるようになった」ことに強く影響したのは、能の序破急という概念である。 渡邊守章氏の論文で、能における序破急とは、巷でよく言われるような、ストーリー構成としての起承転結に当てはまる意味だけではなく、演者の所作にも当てはまる概念だということを知った。 わたしにとってこれは天啓だった。 一つ一つの動作が、コード化されているのだ。物語的な定型を持っているのだ。こういった定型を、他の人たちは無意識的に会得できているのだ。わたしはたまたまその定型に上手くはまっていないのだ。レーダーマンになれていないのだ。 「自分を見つめる孤独な毎日」の中で、わたしはそう確信した。 そして多分、この発見が、離見の見に繋がったと思う。

  • 『ナッツ』――専制君主国家を生きる幸福。

    この記事(あとこの記事も)に影響されて、『ナッツ』という映画を見た。 うん。おもれえ。 一つだけ気になったところは、記事コメント中のお二人も触れていることだが、とりあえず引用しよう。 ===== あと、過去があきらかになったときに、原因が誰にでもわかりやすいので、そこも現実はそんなに簡単じゃないって思う部分ですけどね。 ===== ここはわたしも気になった。「トラウマを固定化しているような感じ。即ち主人公女性みたいな主体になるのは、性的虐待が原因である、という短絡的因果論の押しつけのようにも見える」ということだけど、お二人もそれについて注釈しているし、わたしとしては何も言うことがなかったりする。 何も言うことがないのに何で書いているかっていうのは後述。 文字数稼ぎがてらこのことについて補足してみる。今ちょうどドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』(新訳)読んでいるんだけど、その視点で言

  • 2008年08月

    欲望機械を支える地面が、充実身体である。 充実身体の肌は、その提唱者であるガタリに言わせると、つるつるしているそうだ。 鏡面のようなものを、わたしはイメージする。 では、充実身体の肌の中身はどうだろう? そこは、到達不可能な領域なのだ。 こここそが、現実界なのだ。 社会的な機械や欲望機械も等しく機械である。 その部品や工程が異常に多いのが社会的な機械である。 機械の部品の一つとして、作動油がある。 ある時、機械から、作動油が漏れる。 充実身体の肌に落ちる。 肌は、油をはじくこともあれば、油が染み込むこともある。 機械の歯車は、シニフィアンだ。 作動油は、情動だ。 現実界と離接するならば、シニフィアンより情動を利用する方が、理に適っているのである。 非定型発達者は、充実身体内部からの影響に敏感である。 この影響とは刺激である。 定型発達者は、充実身体を覆う欲望機械からの影響しかわからない。

  • オタクにとっての対象aとは? またはオタク文化における「語らい」

    前の記事でも書いたように、オタク文化をラカン論を用いて分析するブログはたくさんある。直接の引用などは無くてもラカン「風」な言い回しを使っている記事もちらほら見かける。最近、ひきこもりの専門家でありオタク文化に造詣があり「ラカン萌え」な精神科医、斎藤環氏が、ラカン論の「入門書の入門書」とも言える著作を上梓したことも影響しているかもしれない。私も読んだがラカン関係のを二日で読了したのは初めてのことだった。 私は、ラカン論はポストモダンの文化を分析するのにとても適した理論だと思う。まあポストモダンでの臨床に基づいて構築された理論だから当然といえば当然なのかもしれないが。 そんなラカン論を用いてオタク文化に言及するいろんなブログがある中、ある一つの記事を読んで、前の記事に関することで少し言及が足りなかった点があると気づいた。今回はその辺を少し考えてみたい。 オタク文化の特徴として、これまで触れて

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