我が家の神棚(仮)には、本が添えられている。北大路公子さんのエッセイ『流されるにもホドがある』と浅生鴨さんの小説『猫たちの色メガネ』の2冊だ。 2冊とも私が購入した本であり、神棚(仮)に添えたのは母である。 ***** 昨年入院・手術をして以降、日常の行動範囲が狭まってしまった母は、家の中で過ごす時間が多くなった。思うように身体を動かせないもどかしさから、気力がわなかい日もあるだろう。本来なら今年は、母の田舎へ帰って一緒にお墓参りへ行きたいところだったが、社会的状況が状況なだけに遠出は難しい。 何か家の中で楽しめるものはないだろうかと考えたとき、私に思い浮かぶのは読書しかなかった。 しかし、母に読書の趣味はない。読書に限らず趣味を作るだけの時間がなかった、と言うのが正しいのかもしれない。他人には絶対に忙しなく働いているふうに見せない人なのだが、かといって家族にもそう見られたかったわけではな
先月の7月、第2週目。就労継続支援B型事業所へ見学に行った。 今年の春頃に生活・金銭面での不安がぐわっと襲いかかってきたのを、心理士さんに相談したことにより「事業所見学」の話が浮上したのである。これを機に、小学生のころから家庭内の金銭問題でメンタルがグラついていたこともカウンセリングで打ち明けられたので、ある意味いいきっかけになった。 ✽春頃のブログ⬇ yoshi-mi.hatenablog.com yoshi-mi.hatenablog.com yoshi-mi.hatenablog.com ***** 緊急事態宣言が明けるのを待って見学へ行くも、直後に再び緊急事態宣言期間へ突入してしまったため、体験の申し出をしていいものかこの1ヶ月迷いに迷った。 何だかんだでもう4年くらいひきこもっている自分が、コロナ禍の今動き出そうとするのは迷惑なんじゃないかとか、間違っているんじゃないかとか。「不
どんな道にも落とし物はある。 「ああ、誰かが落としたんだなあ」 胸の内で一言つぶやき、大抵はスルーしてしまう。落とし物の代表選手と言ってもいいあの軍手が、なぜに「代表選手」にまで成り上がったのかサクセスストーリーが気になると思いつつも目の前に落ちていたら、「ああ、また誰かが落としてる」で終わらせてしまう。 しかし、作家で俳人のせきしろさんは違う。 私はどうするのかといえば「想像する」に尽きる。たとえば「この手袋は誰かの形見かもしれない」と考え、思い込んでみるのだ。 するとさっきまでただの手袋だったはずなのに、大きな意味を持ち始める。故人が大切にしていた手袋に見えてきたり、故人との思い出の品に思えたりしてきてドラマが生まれる。しかもそれを落としてしまっているのだから更なるドラマが追加される。私は頭の中で勝手に物語を進めていく。 (P1 まえがきより) 今年の4月に刊行されたせきしろさんの『そ
①マイケル・ジャクソン(キャプテンEO) ②キラキラリボン 相変わらずスタイルに一貫性がないイラストたちです。 人物も描いてみたいし、ファンタジーっぽいのも描いてみたい。 ちなみに私は物を立体的に想像するのが苦手で(発達検査の際には「空間認識能力」が低いと指摘された。地図が読めないのは、この能力が関係しているみたいです)、リボンを描いていると頭がこんがらがりそうになる😵 くるっと円を描こうとするとき、どこがどういう状態で、この線はどこに繋げればいいんだっけ……ってフルに頭を働かせるがために、非常に脳が疲れるのだ。まるで脳の体操をしいてるみたいに。 適度な疲れは、充足感に繋がる。充足感を得ると、ちょっと霧が晴れる。 楽しんでやっていこう。
赤ちゃんは総じて「かわいい」。いや「愛らしい」の方がしっくりくる。理由を探すまでもなく。「赤ちゃん」と聞いただけで、頬が緩む。 人間の赤ちゃんを「愛らしい」と思えるようになったのは、いつからだろう。はっきり覚えていないものの、10代のときはそんなふうに捉えられなかった。母性本能はまるで発動しなかった。 赤ちゃんは総じてかわいい、ものである。という概念を覆す赤ちゃんをひとり知っていた。 私だ──。 赤ちゃんのころの私。写真を見て、「かわいい」とはちっとも思えない。写真から得られる情報は姿形だけ。つまりは、顔の造形を見て「残念やな」と思ってしまう。はじめて写真を見た日も同じ感想を抱いたのかは、定かではない。 ***** 私が「産まれる!」というとき、家族の誰にも連絡がつかなかったらしい。冬の早朝のこと。その時間帯に他の家族はみんなきっと、まだ眠りの中にいた。 幼い私は父親似で、「お母さん似ね」
「鎌倉」と聞いて「あじさい」が真っ先に思い浮かぶようになったのはつい最近、昨年からのことである。 以前は、「修学旅行」で選ばれる行き先のイメージが強かった。実際に自分の中学校も修学旅行先は「鎌倉」だった。 不登校児だった私は修学旅行に参加した経験はないけれど、“修学”のために選ばれる土地と考えただけで厚い壁を感じていた。寺社仏閣を学生服姿の集団があちこち動き回る様を想像し、次第に「警戒したい土地」として認識するまでになっていた。 制服姿の学生が数人向かいから歩いてくるだけで、30過ぎても肩に力が入る。もちろんすれ違う彼らには何の罪もない。むしろちょっとくらい調子に乗って、学生時代を謳歌してほしいと願う。 修学旅行の経験がないこと自体に、後悔はまったくない。しかし己にとって人間関係を築く過程では、「修学旅行問題」が第一難関だと睨んでいる。 「ねえ、ハナさんは修学旅行ってどこに行った?」 相手
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