ブックマーク / shinichiroinaba.hatenablog.com (10)

  • 『水星の魔女』雑感 - shinichiroinaba's blog

    もちろん『水星の魔女』は意匠としての百合を利用しただけであってクィアにコミットしようとしたわけではない。また百合も主題というよりは来の主題の副産物として導き出されたものではなかろうか。来の主題が何かといえば、訴求力の強いテレビシリーズとしては初の女性主人公のガンダム、というところである。ただそこで、それでは主人公の傍らに配するパートナーをどうしようか、という問題が浮上した。そこでパートナーを男性にしてしまう、という選択肢ももちろんありえたのだが、女性にしてしまった。その結果が百合というフォーマットの採用である。そのように考えるならば、女性を主人公、エースパイロットにするという点では性別役割批判として革新的だが、サポート、バックアップ担当のパートナーもまた女性にしてしまったという点では、むしろ不十分だった。こういう意地悪な見立てもできる。海外クィア勢からの率直な支持に比較したとき、国内ク

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    t-kawase 2023/11/20
    稲葉先生、この作品もしっかり見ていたのか。それだけでも尊敬する(僕は未見)。
  • ■ - shinichiroinaba's blog

    大塚英志『サブカルチャー文学論』を一応読了、『「おたく」の精神史 1980年代論』(講談社現代新書)[bk1 amazon] にとりかかる。個人的に、いろいろと痛い指摘が多い。たとえば湾岸戦争時の文学者の「声明」について論じたあたりでこう書かれている: あの文学者の声明は、80年代にすっかりボーダーレス化してしまった「知」とサブカルチャーの境界の一種の仕切り直しとしての側面があった(中略)。蓮實重彦が業界系少女まんが家とカフェバーか何かで同席してしまっている自分に困惑したエッセイを書いたのが80年代半ばだったが、そういった自体に「知」の側の人たちがいいかげん耐え難くなっていたという印象がその時点であった。 もっともぼくに言わせればサブカルチャーの方に足を踏み入れてきたのが「ニューアカ」や「ポストモダン」といった類の「知」やら「文学」の側であり、その結果としてぼくのようなおたく系のライターと

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    t-kawase 2020/06/30
    で、この稲葉先生の評価に僕も基本的に賛成。僕が大月氏を見限ったのは、彼が「新しい歴史教科書をつくる会」に参加したことがとどめだったけど。
  • 『オタクの遺伝子』続編のための覚書 - shinichiroinaba's blog

    方法論的メモ オタク系サブカルチャーの研究をポストモダン社会論として行うことにはそれなりの危険がある。近年のマンガ研究において浮上した「反映論」と「表現論」との対立という偽の構図に照らしていえば、もちろん「表現論」が正しい――というかその次元を踏まえずにはマンガとか映画とか文学を社会学の素材として用いることに意味はない。「反映論」はそれなりに根拠はあるにしても、必ずしも自明ではない前提――芸術作品だのエンターテインメントだのにおいて表現される物語その他の内容が、現実社会において生起している現象、問題を、デフォルメしつつ有意味な形で表現している――に乗っかっている。しかしもちろん、こういう「素朴リアリズムへの信頼」は必ずしも自明ではない。たとえば文学やマンガの中で多重人格が好んで素材として取り上げられているからといって、それが現実における多重人格現象を適切に反映しているとは限らない。 という

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    t-kawase 2009/02/16
    あとで読む。(長谷川裕一も奈須きのこもしらんので)
  • 本田由紀『「家庭教育」の隘路』(勁草書房) - shinichiroinaba's blog

    「家庭教育」の隘路―子育てに強迫される母親たち 作者: 田由紀出版社/メーカー: 勁草書房発売日: 2008/02/25メディア: 単行購入: 7人 クリック: 82回この商品を含むブログ (30件) を見る 店頭で少し立ち読み。 書は若年労働市場研究と前後して進めてられていた、ワーキングマザー研究のまとめである。既に共同報告書が刊行されており、前作『多元化する能力と日社会』でもその分析が紹介されていたが、ここで改めて議論をまとめ直している。 子を持つ親としてまったく他人事ではないネタであり、データとその分析自体大変に有意義だと思うのだが、ことに興味深いのは、あとがきでの田の述懐である。 前著が大佛次郎論壇賞奨励賞を受けた際の講評を読み、「あちゃー」と頭を抱えたのはぼくだけではないはずだ。端的には以下の橘木俊詔のコメント: これまでは学力、つまりメリトクラシーの下で人の能力が判断

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    t-kawase 2008/03/01
    あとで(本を手に取ってから)
  • 季節柄、インフルエンザにつき - shinichiroinaba's blog

    http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20070409/p1 http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20060910/p1 の続きということで。 『〈病〉のスペクタクル』(人文書院)で注目された美馬達哉氏だが、メタボや精神障害についての議論には学ぶところも多いとは思うが、インフルエンザについての議論には首を捻る。浜六郎氏同様の製薬会社陰謀論を匂わせて、パンデミックの危険を過小評価するのはいかがなものか。 しかしこのところマスメディアでは「タミフルやばい」という声の方が圧倒的に大きい。 岡田晴恵氏は危機感が高じたのか小説まで書いちゃった。 H5N1―強毒性新型インフルエンザウイルス日上陸のシナリオ 作者: 岡田晴恵出版社/メーカー: ダイヤモンド社発売日: 2007/09/14メディア: 単行購入: 5人 クリッ

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    t-kawase 2007/11/28
    参考に
  • 卒論外注 - shinichiroinaba's blog

    http://d.hatena.ne.jp/dice-x/20070131#p1 こういう輩もいるわけだしな。まじめに対策を練らないといかん。 http://web-teacher.jp/ http://report.rakugan.com/

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    t-kawase 2007/01/31
    リンク先に呆れた。うちの学生がこういうのを頼るほど落ちぶれていないことを祈る。
  • 『ブログ解読』没原稿 - shinichiroinaba's blog

    今回は余裕があって二つ書けたので、不採用になった方をこちらに晒す。 - 今回は開き直って業界の代弁をさせていただく。何かというと「高校必修漏れ問題」である。当該問題について分析した大学教員のブログをふたつ、ご紹介する。 大屋雄裕(名古屋大、法哲学)は問題が比較的「地方の・レベルの高い公立校」に多いことに注目し、都内の名門進学校で、教員の専門・趣味に走った、面白いが受験にはあまり役に立たない教養主義的教育を受け、受験対策には予備校を利用した自分の体験を省み「これは都市と地方の格差という問題の一変奏なのである」と喝破する。大学受験が全国レベルの情報戦と化し、受験生のみならず高校、大学も大手予備校のコンサルティングを受ける顧客と化して久しい今日、その大手予備校のサービスを十分に利用できない地方の受験生の不利は存外大きい。そして当然のことながらその負担は高校にも回る。地方の進学校は正規の授業に加え

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    t-kawase 2006/11/10
    とりあえず。
  • 川原泉『レナード現象には理由がある』(白泉社) - shinichiroinaba's blog

    ホモフォビアの疑いで責められている書だが。 ホモフォビア……というより、他者に対する酷薄さ、自己中心性、とでも呼ぶべきではないのか。 たとえばはてなでどなたかが指摘していたことだが、ホモフォビア疑惑で問題となっている「真面目な人には裏がある」で目に付くのは、「可愛らしい数字」の偏差値と形容されるユリアナ女子高校の生徒たちに対する登場人物たちの(そしておそらくは作者の)視線の酷薄さだ。ありていに言えばそれは差別意識などという生易しいものではなく、それ以前のもの、いわゆる「差別意識」においても普通は存在しているような、対象への関心の見事なまでの欠落である。 更にいえば、この「真面目」で最も異様に映るのは、ゲイの登場人物たち(主人公たちの兄たち)の描き方ではない。主人公日夏晶において「家族・兄弟がゲイだった」という驚きが欠如しており、あくまでも他人事としてしか感受されていない、ということだ。そ

    川原泉『レナード現象には理由がある』(白泉社) - shinichiroinaba's blog
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    t-kawase 2006/08/25
    「なぜここに「日夏さんのお兄さん?」の一言が入っていないのか?」確かに。あと、「どうして俺はこんなに差別的なんだろう」というくらいの気持ちはあるのですよ。↑MacacaFuscataさま
  • 2006-04-18

    藤田省三を「人文系ヘタレ中流インテリ」呼ばわりしたよ。 まあ丸山真男を筆頭に戦後民主主義者はおおかたそうなんだからしかたないんだけど。 中西師匠がかつて山田盛太郎と大河内一男を「そこには「市場」がない」となでぎりにしていたことを思い出す。大塚久雄や内田義彦はなんとか戦後民主主義に「市場」を肯定的なものとして認識させようとしたわけだが、結局何かが足りなかったわけです。 それにしても「全体主義」概念はつかいどころがむずかしい。藤田の「「安楽」への全体主義」はもちろん卓見であり、いま読むと東浩紀の「動物化」論だとかアガンベンの「剥き出しの生」「ホモ・サケル」論とかに完全に先駆けてることもわかるのですが、一方「全体主義」概念は実証研究の道具立てとしては果てしなく問題含みであることは山口定のようなファシズム研究者、また塩川伸明のような社会主義研究者が指摘するとおりなわけで。 http://d.hat

    2006-04-18
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    t-kawase 2006/04/18
    件の藤田省三を書いた部分を早く読みたい。でも、丸山・藤田がそんなに簡単にぶった切れるとは思えないけど。稲葉先生、口悪すぎ。
  • インタラクティヴ読書ノート別館の別館 - 高原基彰『不安型ナショナリズムの時代』(洋泉社新書y)

    男マスダ(定職就任おめ)激奨につきこうてみた。まだ半分くらいしか読んでいないのだが、頭を抱える。 確かに随所に 「ナショナリズムはのっぺりと国民全部に拡散するのではなく、人種や階級といった、国内における立場の違いを、色濃く反映するのがふつうなのではないだろうか。」(20頁) とか、 「日の責任にすべてを還元し、それに都合のよい相手方の声だけ輸入を企てるという論法には、むしろ日の覇権主義へのノスタルジーを感じる。」(24頁) といった卓見が見られ、文化研究者としてのセンスを感じさせるのだが、いかんせんその背景をなすところの第1章の労働市場論というか、高度成長・経済発展についての記述につっこみどころが満載。これではたとえ第2章以下のカルスタの部分がよくできてても、の価値が半減だ。 例えば 「石油危機を契機に、次のような事情が明らかとなった。大量生産品から多品種少量生産への移り変わりは、移

    インタラクティヴ読書ノート別館の別館 - 高原基彰『不安型ナショナリズムの時代』(洋泉社新書y)
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    t-kawase 2006/04/13
    ちょうど今僕も読んでいるので参考に。僕も経済学は弱いから、同じこといわれそうだな。
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