問題意識を持つことは、出会う事象を漫然と見るのではなく、検証材料として察知するのに役立つ。そしてこの営みは、さらなる次の仮説につながっていく。(鈴木敏文) さすが。
本家のブログ(広告β)を更新停止しました。こちらも、たぶん停止すると思います。アカウントにはかなり思い入れがありますが、それも停止するような気がします。とくに何かがあったわけではないですが、節目ということでリフレッシュしたいと思います。読んでくださっていた方、ありがとうございます。また近々お会いしましょう。
好きなライター、マルコムグラッドウェルの著書「第一感(原題blink)」から。 即興芝居を可能にしているルールのうち、特に重要なのは「同意」だ。物語やユーモアを創作する場合、登場人物がその場で起きたことをすべて受け入れると、やりやすくなる。 下手な役者は、演技力はあっても物語を止めてしまう。うまい役者は物語を進める。 うまい役者の即興芝居は、まるでテレパシーが通じているみたいだ。あらかじめ打ち合わせてあったみたい。相方の台詞を決して否定しない。ふつう、人はそんなふうに行動しないものだ。 なんていうか、これを見てノリというものについて考えてしまう。たまに、自分よりテンションの高い軍団と一緒に遊んだりすることがある。特に合コンなどでチームを組んだりするときに、仲間が、自分の想定しなかった角度からボケやツッコミを振ってくることがある。このときに、上記の即興芝居の考え方でいうと、同意しなければいけ
私の恩師(というか元上司)は、入り口の一番近くに座っている。狙いはわからないけど、これは偉いと思う。偉い人は、多くの情報を知らなければいけない立場で、それを集めなければならない立場というのが普通だと思う、それを実現しようとするとこうなる。しかし、ふつうの企業だと、偉い人はどんどん奥へ引っ込んでいく。もっと偉くなると、個室になったり、専用フロアとかになったりもする。もしかすると、これは城壁の考え方というか、天守閣的な考え方なのかもしれない。でも現代では、敵軍が攻め込んでくる可能性は低い。あるいは、「席の究極は個室」という考え方なのかもしれない。平社員の席は個室の途上である、的な。個人的には、偉い人はただでさえ話しかけづらいので、あんまり天守閣には行ってほしくない。社内SNSでもメールでも社内Twitterでもしくみ作りにはなっているとは思うけど、物理的なしくみっていうのも強い効果を生むのでは
天下りについて先輩と話していた。官僚組織においては、同期として入った全員が出世できるわけではない。同期のトップが事務次官になる前に、他の人間はふるい落とされ、天下り先に行く。これが叩かれているわけだが、こういう状況はピラミッド型の組織であれば当然に起きることだと先輩はいう。そこで「じゃあ普通の企業はどうしているのか?」と聞くと、それは成長によって解消しているという。企業としての成長をすることで、ピラミッドを全体として大きくして、人員を吸収する。企業は、膨張の意志を持つだけはなくて、人員配置の要請からも成長を要請されているのだということがわかる。「じゃあ官僚組織も成長すれば天下りは起きないですね?」と聞いたら先輩は一言、「そうだよ。でもそれは戦争につながるけどな」。
風向きを変える、決定的な情報というものがある。商品購買においても、決定的な情報というのが何かというのは重要なことだ。たとえば、ある企業がコーポレートブランドのマークを作ろうとした。表現したいものは会社の熱意である。そしてその会社は火を扱う仕事をしている。たとえばこんなとき、アイデアとして炎をマークにすることになった。色はどうするか。当然、赤やオレンジの案が出るが、そこでこんな情報を出す。「いちばん熱い炎は、青ですよね?温度が高くなるほど、赤から青になっていく」この情報のあとでは、かなり青が選ばれやすいだろう。そしてさらに決定的な情報を出す。「ロゴというのは他者が見るためのものです。重要なことは、他者から見て熱そうに見えるかどうか、です」これで再び赤が選ばれるだろう。 さいきんはメディアの話を聞くことが増えた。メディアは数値化しやすくなり標準化され、それにしたがって議論もしやすくなってきてい
俳句・川柳っぽい広告、言い換えると「あるあるネタ」広告というのは一定の需要があるのか、たまにみかける。体感値としては、増えている。広告を見てくれる人がどんどん減っている(というふうに言われている)現況においては、あるあるネタというのはかなりの鉄板であり、商品につながるかどうかは別として人気がある。缶コーヒー「Roots」の広告とかはこれ系だと思う。そこからつながり、ナントカ俳句・ナントカ川柳の企画というのが企業発でよく見られたりする。これ、どのくらいあるのだろうか。 お〜いお茶 新俳句大賞(伊藤園) サラリーマン川柳(第一生命) トイレ川柳(TOTO) 通販川柳(日本通信販売協会) よみうり時事川柳(読売新聞) いのちと献血俳句コンテスト(日本赤十字社) エコ俳句大賞(コニカミノルタ) 全国おぶつだん俳句川柳コンテスト(全日本宗教用具協同組合) 新幹線俳句大賞(JR西日本、JR東海、他)
自分をウォッチしていて、人間の活動に関するモデルを考えた。人は、何かの刺激に対して、瞬間的に行う判断がある。まずは、それが「危険か安全か」。そして同時に、その刺激に対して「受容するかコントロールを試みるか」。かなり原始的だけど、本人も気づかないほど瞬時にこの判断が行われているような気がする。喜怒哀楽を、それに従って整理してみた。この喜怒哀楽に乗っかって、感情が続き、そのあとそれを理屈づけるフェーズに入る。ある情報に対して急に怒る人というのは、瞬時に危険を察知し、そしてコントロールを試みる体勢に入る。そして、何らかの理屈で怒り始める。典型的な状況として、自分に対して不利になるであろう情報のインプットに対して怒る人というのがある。守旧派の上層部であったり、まあその他いろいろ。そして重要なことは、危険を察知してコントロールしなければいけないから怒り始めたのであって、別にインプット情報が間違ってい
この文章が好きだ。 私は以前、このウェブサイトを好意的に紹介した。しかし、こんなの税金の無駄使いだ、という意見も、理解できる。99%の国民は、このウェブサイトを見ないに違いない。だから、廃止したって不都合はないだろう。同じ金額を使うなら、マスコミへの情報提供を強化する方が、よほどいいかもしれない。 が、それはそれとして、このウェブサイトが有用であることは疑いがない。税金を使って行われている事業の少なからずが、このような種類のものだ。政府広報オンラインを見たおかげで、正しいインフルエンザ対策を実行でき、命が助かる人がいるかもしれない。それでも、これは税金の無駄使いかもしれない。 だから、事業仕分けは難しい。 (事業仕分けと無理な注文) なんで好きなのか。内容に同意したからというわけではないように思う。なぜだろう。よくわからない、なので、とりあえずわかるまで置いておくことにした。
某リサーチ系の人と話したけれど、「なにが本当なのか」というのを見極めるのは、かなり難しいねというのがあって、これはかなり共感できた。リサーチをやるときには、対象者に聞くというのが一般的にはあるのだけれど、実際に感じたことを対象者が覚えてなかったり、覚えていても気づいていなかったり、気づいていてもうまく言葉にできなかったり、言葉にできそうでもそれをしたくなかったりと、いろいろとノイズが入ってくる。その結果出てきたリサーチの内容のどこを本当のものだと考えるか見極めなければいけない、でもそれはかなり難しい。 不完全ながらもいろいろ手法はある。言葉を介して聞かないというのが複数あって、行動データからだけ読むとか、深層意識探るとか、まあたくさんあって興味深いのだけれど、なんていうか根底にはジゴロ的感性が要求されるような気がする。 ジゴロ的感性というのは、「こいつはこういう風に言っているけれど、実は○
最近、ペットボトルを買わなくなった。厳密には、プライベートでは買わないが、会社では買う。理由は単純で、捨てるのが面倒だから。いま住んでいる自治体では、ペットボトルはラベルを剥いで、洗浄して捨てることになっている。出す日も決まっていて多くはないので、軽い気持ちで買う割には捨てるのが面倒くさい。同様に、シャンプーなども詰め替え主体で、できるだけ燃えるゴミレベルの簡単さになるようにしている(会社の場合、すでにゴミ箱レベルで分別がなされるので面倒ではない)。 これを別の視点から見ると、捨てるのを面倒くさくすることで、ペットボトルを買わなくさせて、エコ活動を増進させるという施策があった、とも言える(実際はそうではないだろうし、ペットボトルが反エコと仮定しての話)。もし「ペットボトルの消費量を減らせ」という指示が来て、仮に私が自治体の担当者で、メーカーに口を出す力はないとしたら、分別を厳しくやればよい
自分が好きなものや、気になるものをネット上で書いたり、集めたりする。そうすると、それをブックマークなり、フォローなりしてくれる人が出てくる。フォローという語感から考えると、自分に従属というか、追っかけるというようなニュアンスが出るけれども、実際は自分よりも上手というか、たいていの場合はある方面で必ず自分より優れている人である。だから最適戦略というのは、自分をフォローしたり、ブックマークしてくれる人を逆向きに追っかけるということである。自分の発信が最初にあるのだけれども、それによって推薦されるべき人(と情報)がそれにくっついてくるようなイメージである。最強のリコメンデーションというのは、こっちから発信して、そのフィードバックを逆向きに追っかけるということになる。よって、リコメンデーションで最も重要な点は、おそらく「自分の情報を出すこと」だろう。情報というのは、探すのではなくて、出すと寄ってく
最近、インフルエンザ対策でマスクをしている人を見かける。知り合いでも、マスクをしているとやや話しかけづらくなる気がする。病気がうつるとかそういうことではなく、なんだかシャットアウトされているような印象をうっすらと感じるからではないか。さて一方、体が弱そうに見えないのに杖をついていたり、明らかにいかついのに車椅子に乗っている人などを見ると不思議に迫力がある。ハンディキャップがあるふりをしているようにみえると、不気味だということなのだろう。そういうことを合わせて考えるに、暴走族がなぜサングラスをし、マスクをしているのかがわかる。彼らはまず、周りをシャットアウトしている。「俺に話しかけるな」という非言語メッセージを発している。それと同時に、由来としてはハンディキャップから身を守るものを健常体に身につけることで、不気味な迫力を出そうとしている。加えて、大声を出したり爆音を出したりして、人目を引きつ
仕事における「やりがい」と、ゲームにおける「楽しさ」は、かなりのところ似ているのではと思う。そういう意味で、仕事とゲームは競合関係にある。なんらかの目標があって、自分なりの努力を投入して、そしてフィードバックがある。目標の大きさや難易度、フィードバックのあり方がうまく設計されているとゲームも仕事も楽しい(やりがいがある)と感じることができる。ゲームの場合、そのバランスを専門家が必死になって設計している、だから仕事は競合相手として分が悪い。しかし仕事をしなければ飯は食えないので、取りかかりの強制力という意味では仕事が優位にたつ。ところが仕事をしなくても飯が食える人にとっては、うまく設計されているゲームの方が取り組むモチベーションが高くなる。ニートの誕生である。しかも多くの企業においては、ある程度の経験を積むまで権限が与えられず、単純作業の繰り返しになるので(延々とスライムと戦い、レベルが上が
そうだった、前掲の本から、孫引きになってしまうけれど引用。 奴隷解放という歴史的瞬間に黒人奴隷達が次のような会話をします―― 奴隷A:「俺たちはもう自由なんだ!自由になったんだ!」 奴隷B:「自由ってことは、明日からもう働かなくてもいいのか?」 奴隷A:「馬鹿だなぁ、働かなきゃ食べていかれないさ」 奴隷B:「じゃあ昨日までと何も変わらないじゃないか?」 奴隷A:「(一瞬考えて)自由というのはなぁ、自分で自分の"ご主人様"になるってことなんだ」 奴隷B:「そうか・・・・・・自分のご主人様・・・・・・俺が俺のご主人様になるのか」 ダイレクト販売を広告主が選ぶということは、楽をして儲かるということじゃなくてむしろ逆に、広告主自身が当事者となって自分で売るということ、その意識を持つことなのだ・・・というすばらしい話につながっていくのだけれど、ここだけ抜き出しても素晴らしい。元々はアメリカのテレビド
まったくブログを更新してないことに気づいた。Twitter効果か。そういえばTwitterスレから。 125 : フクシア(dion軍) :2009/08/18(火) 00:22:10.16 id:gF4/0+pb そもそも自分の情報を発信する意味がわからない。blogとかよくやるよな 130 : トキワハゼ(大阪府) :2009/08/18(火) 00:22:43.72 id:DHQEttPL >>125 いま発信してるじゃん 「情報発信」というものに対するなんか変な気分をうまく表現していると思う。情報発信しているつもりはないんだ。情報発信というと、なにもないところから何かを考えて誰かに向かって発信するようなものを思い浮かべてしまうけど、そんな場合は多くなかったりする。たいてい、何かに反応していることが多くて、発信というほどのものでもない。このあたりをうまく拾うと、たくさんのユーザーを集
すこし前から、仕事をしながら少し前にボールを投げておいてみるということを試している。たとえば、「これを次回からどういうふうに楽にできるか」を考え続けながら仕事する。そうすると目の前の仕事の定型化や自動化がかなり気になり、アウトプットの形もそれ前提に変わる。たとえば、「この途中作業を切り出してどういう風に金が稼げるか」を考え続けながら仕事する。そうすると他人から見て意味のないこだわりみたいなところを薄くしがちになり、それはそれでアウトプットの形が変わる。それ自身を、それ自身完璧なものとして終わらせようとすることもできるけれど、自分の仕事の場合それだとたいした完成度にならない。ベクトルが定まらないので、投下したエネルギーが拡散し、自分が何となくこだわっている部分を適当にまぶしたような変なものしかできない。
中世の時代、まだ過去の記録を書き残す習慣がなかったときには、重要な出来事は「別の方法」で記録されていました。重要な出来事とは、たとえば土地の譲渡や、有力な家系の間の重要な結婚式や交渉などです。そう言う重要な出来事をきちんと記録するためには、七歳くらいの子供を選び、慎重に事実経過を観察するように指示し、そして川の中に投げ込みました。こうすると、出来事の記憶は子供に印象づけられ、その子の一生涯にわたり保たれると考えられていたのです。(「記憶と情動の脳科学」より) まさに命がけ、まさにライフをハックする感じ。ってどんな感じだっていうの。ただまあ、印象的な出来事にくっつけさせて覚えさせるというのはその当時から知恵としてあったのだなあと。
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