[読書] 『ヨブ記』(関根正雄訳、岩波文庫) (挿絵は、英国ロマン派の詩人ブレイクの描いた「ヨブ」。サタンに苦しめられるヨブ。) 『ヨブ記』を25年ぶりに(?)再読した。『ヨブ記』は、旧約聖書中もっとも重要な作品の一つだが、解釈が大きく分かれる問題作でもある。その解釈の根本的対立点について考えてみたい。『ヨブ記』は、真ん中の長い詩文を、前後の二つの散文が挟む「枠構造」をしている。まず冒頭の散文であるが、それは神ヤハウェとサタンの対話であり、ゲーテの『ファウスト』の原型である。ヤハウェが「正しき人ヨブ」を褒めたのに対して、サタンが「ヨブが神をうやまうのは彼の人生が順調だからにすぎない。ヨブが不幸のどん底に落ちれば、神を呪うにきまっている」と反論する。神ヤハウェは、「じゃお前やってみろ。ヨブを不幸のどん底に落としてごらん」ということになり、サタンは、ヨブのすべての息子たちを殺し、ヨブの全財産を
【アンマンから】 20日(日)午後、ベイルートを出発して、ダマスカス経由で一気にアンマン(ヨルダン)まで抜けた。乗った車の運転手の国境手続きに時間がかかって、結局アンマンに到着したのは午後9時だった。しかも、これから翌日(21日)午前4時半の飛行機で日本に戻る。帰国は22日(火)になる。だいぶ日本から遠ざかった。 16日にベイルートに戻ってから、実は18日にもう一度日帰りでレバノン南部に行った。なんだかどうしてもあの「右手」の遺体の行方が気になったからだ。あの場所に着いたときには、今度は別の遺体の発掘作業をショベルカーを使って行っていた。 結局、あの場所からはその後3人の遺体が発見された。1人の遺体はまだ見つかっていない。その詳細は次の原稿(「論座」)で書くけど、あたりはまだ死臭が漂っていた。ちょうど一ヶ月の間、レバノンにいたが、本当に死臭ばかりだった。 臭い(匂い)というものは、映像も写
不敗を豪語してきたイスラエル軍と互角以上に渡り合い、敵を震撼させその名を天下に轟かしたレバノンのシーア派武装組織、ヒズボッラーの強さの源泉はどこにあるのか。19日付のイスラム・オンラインが、侵略を受けた南レバノンのビント・ジュバイルから報じた。 ------------ ハイダルがヒズボッラー組織に加盟したのは1996年、アブー・ザッルは1989年で、両者とも人生で主要な仕事は、この世の楽しみを捨てて、(占領に対する)抵抗だとの信念を持っている。 レバノン南部のある地でアブー・ザッルは本紙記者に34日間に及んだイスラエル占領軍との戦いの日々について語った。「俺たちの一日は夜明けの礼拝で始まり、祈祷の言葉を読誦し、神さまにお願いする。それから腐っていることもあるような食事を取った後(朝7時)、日が昇り始めると飛翔し始める偵察機に察知されないように、一切物音を立てないで過ごす。逆に俺たちも偵察
イスラエル軍によるレバノン攻撃で、1000人以上の犠牲者が出た。その3分の1は12歳未満の子供だと報告されている。 頻繁に誤爆を繰り返すほど、イスラエル軍は無能な軍隊ではないはずだ。イスラエル軍は、明らかに住宅地区や戦闘員でない人々をわざと攻撃した。 そこには明確な理由があるはずだ。 6月10日、ガザ北部でパレスチナ人の家族連れの海水浴客のいる海岸に、イスラエル軍の発射した砲弾が着弾した。子供や女性を含め8人が殺害された。 この事件に対してハマスは停戦を破棄し、イスラエル側に向けて攻撃を開始した。6月25日、秘密裏に掘られたトンネルを通って、パレスチナの戦闘員がイスラエル軍の基地を攻撃し、イスラエル軍兵士1人を拉致した。イスラエル軍は、ガザ地区に対して無差別的攻撃をはじめた。 7月12日、今度はレバノン南部において、ヒズボラによってイスラエル軍兵士2人が拉致された。これに対して、イスラエル
明日19日のイベント、ライジングサンでのトークならびに明後日の講演に備えて札幌に来ています。更新遅れていたイラクレポートをひとつ。 無事バグダードからモースルに戻った現地スタッフのサラマッドからのメールには、変わり果てた故郷の様子が綴られていた。 「もし君が自分の目であの現実を見たら、僕が言葉で伝えることなんて全く比べものにならないということがわかるだろう。あれは決してバグダードじゃない。別の都市、まさに死の都市だ。光も命もない、ただ殺戮と恐怖の生活。自分が見たものを君が見られるように、僕の瞳を君にあげることができたならと思う。涙なしでは見られない。 人々はいまバグダードを亡霊の都市と呼ぶ。からっぽで通りに車も人もいない。昨年までは渋滞から通り抜けるのに1時間半かかっていたルートも今では多くのチェックポイントがあるのに10分もかからない。中心部の商店ですら午後2時になるともう店じまい!以前
レバノンのシーア派武・政治装勢力、ヒズボッラーが対イスラエル戦争で互角の戦果を挙げたことで地殻変動が起きている。アラブ・イスラム世界の大衆が燃え上がり、親米諸国の為政者たちも無視できなくなっている様子を象徴的に示すシンポジウムがエジプトで開かれた。16日付のミドル・イースト・オンライン(本社ロンドン)のアラビア語版が報じた。 ------------ アジア・アフリカ著述家機構がエジプトの首都カイロで「中東は何処へ、、、エジプトとアラブは侵略撃退でレバノンとパレスチナに連帯」と題したシンポジウムは、さながらヒズボッラーのイスラエルに対する抵抗へのお祝いの場と化した。15日夜遅くまで続いた会合に出席したのは、エジプト与党の民主国民党の幹部党員やアラブやイランの大使たちだ。 1948年のイスラエル建国以来敗戦を重ねてきたアラブ人は、イスラエルに対する勝利を諦めていた。 ムバーラク・エジプト大統
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20060809/p2#cよりswan_slabさんの発言。 swan_slab (略) 木走氏のエントリコメント欄はその後、お約束といっていい、歴史相対主義的な議論、仕方がなかった論、人間の性論の洗礼をへているわけですが、「ヒトラーよりスターリンのほうがひどい」式の相対主義に被害国との関係をいかに修復していくかという視点がすっぽり抜け落ちているのは、要は、被害国、被害者と別にいい関係を築こうとは思わないとの黙示の前提があるんじゃないでしょうかねぇ。べつにはげしく仲良くすべきだと主張したいわけじゃなくて、すくなくとも戦後処理については戦略的な振る舞いがある程度共通認識として要求されると私は考えているのです。つまりお互いの当事国がどういう絵を描いて日本は戦後処理をこなしてきたか、ということについてです。 私自身はそういうおなじみの議論
私が前のエントリで提案した、北大で金成マツノート翻訳事業を継続せよ、という提案、実はかなり微妙な問題をはらんではいる。これは別の所でも書かれていたことであるが、少数者の搾取という問題と関わる。アイヌ研究を含む「民族学」「言語学」という分野が、しばしばアイヌを研究客体としてしか見てこなかった、という現実をふまえるならば、実際は大学という場で金成マツノートを研究するということに危惧を覚えるのは当然なのだ。だからこそおそらく大学ではなく、自治体で文化庁の補助を受けて細々と行われてきたのであろう。そしてその細々とした事業すら打ち切られようとしている。日本に度量があれば、たかだか数百万の金に目くじらを立てないはずなのだが、今の日本はそれだけの度量すらないようだ。実学にしか関心のない、文化程度の低い国になる、これがこの国の選択なのだから、そもそも文学部すら存立が危ぶまれる。 このような現状では、もはや
春の伊予国漫遊記。松山・今治と愛媛の魅力を満喫してきました。 法事を兼ねて愛媛観光へ 2024年のGWは、毎年恒例の名古屋帰省ではなく自宅でゆっくり過ごしておりました。というのも、4月に法事のため愛媛・松山に親族大集合というイベントがありまして、そちらをGWの旅行代わりにしたという理由です。法事は日曜日の予定ということ…
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