ブックマーク / charis.hatenadiary.com (10)

  • 『聖書』を読む(4) - charisの美学日誌

    [読書] 『ヨブ記』(関根正雄訳、岩波文庫) (挿絵は、同じくブレイクの描いたヨブ。) C.G.ユングの『ヨブへの答え』(原書1952)は非常に面白い。邦訳は二種類(野村美紀子訳/ヨルダン社、林道義訳/みすず書房)。ユングは、神を「集合的無意識」として、すなわち、ある時代の民衆の心の無意識的な働きの対象として捉える。神は物理的事実としては存在しないが、心理的事実としては、十分に実在的である。つまり、神を一種の社会心理学的対象と見るわけである。すると、「神」は決して不変の対象ではなく、歴史的に変容する心理的事実の問題になる。 そのように見た場合、『ヨブ記』は、ユダヤ−キリスト教における神概念の転換を予告する決定的な位置にある。つまり、無意識のレベルに根ざす荒々しい怒りの神であったヤハウェ神は、人間の意識が高まるにつれて、普遍的な愛の神であるキリスト教の神に変容を余儀なくされる。その転換点を象

    『聖書』を読む(4) - charisの美学日誌
    t_kei
    t_kei 2006/08/24
    うーん。。なんだろう、すごく違和感。後で「ヨブヘの答え」を読みかえしてみよう。。
  • 『聖書』を読む(3) - charisの美学日誌

    [読書] 『ヨブ記』(関根正雄訳、岩波文庫) (挿絵は、英国ロマン派の詩人ブレイクの描いた「ヨブ」。サタンに苦しめられるヨブ。) 『ヨブ記』を25年ぶりに(?)再読した。『ヨブ記』は、旧約聖書中もっとも重要な作品の一つだが、解釈が大きく分かれる問題作でもある。その解釈の根的対立点について考えてみたい。『ヨブ記』は、真ん中の長い詩文を、前後の二つの散文が挟む「枠構造」をしている。まず冒頭の散文であるが、それは神ヤハウェとサタンの対話であり、ゲーテの『ファウスト』の原型である。ヤハウェが「正しき人ヨブ」を褒めたのに対して、サタンが「ヨブが神をうやまうのは彼の人生が順調だからにすぎない。ヨブが不幸のどん底に落ちれば、神を呪うにきまっている」と反論する。神ヤハウェは、「じゃお前やってみろ。ヨブを不幸のどん底に落としてごらん」ということになり、サタンは、ヨブのすべての息子たちを殺し、ヨブの全財産を

    『聖書』を読む(3) - charisの美学日誌
    t_kei
    t_kei 2006/08/21
    「徹底して人間中心的に『ヨブ記』を読」んだ、というのはちょっと違和感があるなぁ。。でも「ヨブへの答え」をどのように解釈されているのか楽しみ。ユングの著述の中でも、最大級に重要な論考だと思うから。
  • 上野修『スピノザ』 - charisの美学日誌

    [読書] 上野修『スピノザ −「無神論者」は宗教を肯定できるか』(NHK出版、06年7月) (写真は、スピノザ像) (実家の父を介護していた母が倒れて入院したので、少々ブログの更新が遅れています。) 「シリーズ・哲学のエッセンス」の『スピノザ』が刊行された。焦点を『神学・政治論』に絞った興味深いである。『神学・政治論』は、『聖書』を丁寧に分析したで、ある意味では『エチカ』以上に面白いともいえる。私は大学院生時代に、あの少し大きな古い活字の岩波文庫で読んだときの感激を忘れられない。『聖書』を、「聖なる文書」としてではなく、きわめて冷静に一つのテクストとして分析し、各文書の成立の前後関係や、個性豊かな預言者たちのキャラを縦横無人に論じるスピノザの醒めた眼差しに感心した。 『神学・政治論』は、1670年に刊行されると、ユダヤ教、キリスト教などの宗教保守派はもとより、もっともリベラルであった

    上野修『スピノザ』 - charisの美学日誌
    t_kei
    t_kei 2006/08/07
    「奇跡」と「迷信」について。ちょっと違和感もあるけど、面白い。
  • 上野千鶴子『生き延びるための思想』(4) - charisの美学日誌

    [読書] 上野千鶴子『生き延びるための思想』(2006年2月、岩波書店) (写真は『女の平和』。2002年3月、アメリカのコロラド大学における上演。悩むリュシストラテ。) 上野は、通常の国家暴力(男性兵士)ではなく、テロリズムという「対抗暴力」に着目し、女性の自爆テロリストをモデルに考察した。自爆テロリストという視点から見ると、特攻隊員から普通の兵士に至るまで、兵士の質は「広義の自殺の同意」にあることが分る。そもそも「兵士として戦場に赴く」ことは、「自己の死を承認する」ことである。「生命を保障すべき国家が、国民の生命を召喚するのは契約違反では?」(37)と上野が問う時、この「召喚」の実質に目を凝らさなければならない。この「召喚」には、「契約」すなわち「同意」が含まれる。「自分は戦場で死ぬことがある」という「自己の死を承認」することが、兵士という「社会契約」の一方の項である。 「国家が生命

    上野千鶴子『生き延びるための思想』(4) - charisの美学日誌
    t_kei
    t_kei 2006/03/07
    うーん。。
  • 上野千鶴子『生き延びるための思想』(3) - charisの美学日誌

    [読書] 上野千鶴子『生き延びるための思想』(2006年2月、岩波書店) (写真は『女の平和』。2003年7月、アメリカのスタンフォード大学における上演。ペニスに呆れるリュシストラテ。) 上野の議論のもう一つの柱は、国家が公認する殺人としての戦争の問題である。国家が国民を兵士として戦争に動員することは、たとえ民主的に選ばれた国家であっても、つねに正しいわけではなく、無条件に正当化されるわけでもない。上野は、小林よしのりの「戦争に行きますか? それとも日人やめますか?」(『戦争論』)という「脅し」を批判するだけでなく(37)、橋爪大三郎の「それが民主的に決定されたものなら、応召に応えて戦地に赴くのが正しい」という発言も、全面的に正しいとは認めない(137)。上野は「市民権」という概念に依拠して、国家と個人の契約は全面的なものではなく、部分的なものであることを主張する。 「来ならば市民と国

    上野千鶴子『生き延びるための思想』(3) - charisの美学日誌
    t_kei
    t_kei 2006/03/06
    「つまり、戦争という暴力を極限に突き詰めるならば、それは他殺の仮象をとる自殺なのである。」
  • 上野千鶴子『生き延びるための思想』(2) - charisの美学日誌

    [読書] 上野千鶴子『生き延びるための思想』(2006年2月、岩波書店) (写真は『女の平和』。2000年10月、アメリカのサン・ディエゴ州立大学における上演。兵士の巨大なペニスは、戦争暴力のパロディでもある。) 「戦争という暴力」においては、加害者は同時に被害者でもあるという「暴力の弁証法」が、上野の議論の基線だ。近代市民社会において、「家長」に容認された男から女への家庭内・私的暴力(DV)と、国家により戦争に動員された男性兵士の、承認された公的暴力とは通底しているという「直観」から上野は出発する(p104)。つまり、家庭における男性の力の支配というジェンダー的視点から、国家による男性兵士の動員という戦争暴力を捉える。これはまさにアリストファネス『女の平和』ではないか。夫がに暴力でセックスを強要しても、は、「自分が感じない」という「非協力」によって夫の快楽を取り消せる。こう語ったリ

    上野千鶴子『生き延びるための思想』(2) - charisの美学日誌
    t_kei
    t_kei 2006/03/05
    「暴力のシステムに主体化=服従することで、彼/彼女は暴力の犠牲になり、自分自身が被害者であることを通じて他人に対して加害者になる。」
  • 上野千鶴子『生き延びるための思想』(1) - charisの美学日誌

    [読書] 上野千鶴子:『生き延びるための思想』 (2006年2月、岩波書店) (写真はアリストファネス像。書は、2500年前の『女の平和』を髣髴とさせる。) 上野千鶴子の最新論集。第3章「対抗暴力とジェンダー」(初出2004)が書の白眉。上野は「これは当に辛い思いで覚悟を決めて書いた論文なのに、はかばかしい反応がいただけなかった。・・受けて立ってくれる人がどうしていないのかと、何となく淋しい・・」(p230)と書いている。上野はこの論文で、「女性兵士」というフェミニズムの究極の問いに立ち向かう。その考察を彼女は、連合赤軍事件の集団リンチ殺人の考察から始める。連合赤軍リンチ殺人事件に「立ちすくみ、長く沈黙するに至った」(82)上野にとって、リンチ殺人を行った永田洋子は、「深いトラウマとなった。私がもしそこにいたら? 殺す側にいたかもしれないし、殺される側にいたかもしれない。」(81f)

    上野千鶴子『生き延びるための思想』(1) - charisの美学日誌
    t_kei
    t_kei 2006/03/05
    「戦争の最深部に女が全面的に巻き込まれることは、同時に、それが戦争そのものを変容させる可能性をも開示する。」
  • 頼住光子『道元』 - charisの美学日誌

    [読書] 頼住光子『道元』(NHK出版、05年11月) 小冊子ながら、道元の思想の哲学的な部分をうまく浮かび上がらせた力作だ。「無自性―空―縁起」という根教説と時間論を関連付けた後半が特に面白い。仏教においては、「もの」には固有の質があるという日常的な世界理解をいったん「カッコに入れて」、そこから自由になることが、いわゆる「解脱」である。それは「空」の立場に立つことでもある。しかし、「あらゆるものが空であるということは、けっして何ものも存在しないとか、すべてのものは虚妄であるとかを意味するものではない」(p48)。それは、実在の世界は、無数の事象が「互いに原因(因)や条件(縁)となり合い、複雑な関係を結びながら、相互相依し合って成り立つ」(48)という見方を取ることである。だからそれは、「空」の立場から世界を新しく見て取ることを意味しており、世界は日常的な分節化とは違った仕方で新たに立

    頼住光子『道元』 - charisの美学日誌
    t_kei
    t_kei 2006/01/24
    現成公按。
  • 上野千鶴子『脱アイデンティティ』 - charisの美学日誌

    [読書]  上野千鶴子編『脱アイデンティティ』 (勁草書房、05年12月) (挿絵は、アンティゴネ。オイコス[=かまど、家庭]の掟=肉親の愛情と、ポリスの掟との相克は、彼女を「二つの私」に引き裂き、破滅させた。ヘーゲルやラカンのアンティゴネ論を批判して、ジュディス・バトラーは「近親愛の可能性」を指摘したが、死角を突いて鋭い。) 「自我」とは一枚板の「質」や「実体」ではなく、「複数の私」を内部に含む多元的なものであり、「一貫性を欠いたまま[多元的自我を]横断して暮らすことは、もはや病理ではなく、ポストモダン的な個人の通常のありかたである」(p35)というのが、書の根テーゼ。上野論文についてはアマゾンのレヴューに書いたので、ここでは残りの論文の幾つかをノート。 (1) 第3章、三浦展論文。『下流社会』の著者だが、80年代からパルコでマーケティングや広報を担当し、消費者の「欲望」を分析する

    上野千鶴子『脱アイデンティティ』 - charisの美学日誌
    t_kei
    t_kei 2006/01/05
    上野千鶴子編『脱アイデンティティ』の書評。「「一貫性を欠いたまま[多元的自我を]横断して暮らすことは、もはや病理ではなく、ポストモダン的な個人の通常のありかたである」(p35)というのが、本書の根本テーゼ。」
  • 三笠宮発言に思う - charisの美学日誌

    [時事問題]  三笠宮発言における「男系継承」と「側室の復活」 (写真は大正天皇(右)。子煩悩で家庭を大切にしたと伝えられ、昭和天皇による皇室の側室廃止に先立って、皇室の「近代ファミリー」化に貢献した。) 昨日の日誌のコメントに、knoriさんより、三笠宮寛仁(ともひと)親王の福祉団体会報発言の具体的な文面と思われる紹介をいただいた。お礼申し上げます。再度引用すると、 「私の意見を<ともさんのひとり言>として聞いていただきます。・・・(中略、対策を①〜③と挙げた次に)・・・、④として、昔のように「側室」を置くという手もあります。私は大賛成ですが、国内外共に今の世相からは少々難しいかと思います。」 <ともさん>人が、番号を付して挙げているならば、「少々難しいかと」というコメント付きとはいえ、大新聞は④をカットしないで報道すべきであった。11月7日付「電子版・産経」でも、依然として④を伏せて

    三笠宮発言に思う - charisの美学日誌
    t_kei
    t_kei 2005/11/08
    コメント欄の発言に強く賛同。
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