2017年3月17日のブックマーク (2件)

  • 個人的には幼少時からの英語教育に反対である。以下その理由を述べる - 珈琲をゴクゴク呑むように

    昨今、英語教育の必要性が声高に叫ばれているが、筆者はどちらかというと日人はまずキチンと日語を勉強するべきだと認識している。幼少時という人格形成に強く影響する時期に、他の言語を習得する事に労力を費やすメリットが基的には少ないと思うのがその理由だ。 言語はかなり思考と強固に結びついている。例えば神という単語一つとっても、日語と英語では随分とニュアンスが異なる。英語圏だと神はかなりの確率でThe God(日語のニュアンスだと唯一神)を意味する事が多いけど、日語の神からはそういう認識は非常に湧きにくい。私たちにはやっぱり八百万の神々の方が”しっくりくる”。 私達日人がなんだかんだで均質的な思考回路を持つことができるのは、日語という同一のツールを用いて思考を行っているからである。そしてこれは日語での会話を通じてより強固にフィードバックをうけながら強化されていく。この習得過程は幼少期

    個人的には幼少時からの英語教育に反対である。以下その理由を述べる - 珈琲をゴクゴク呑むように
    takamimusuhinokami
    takamimusuhinokami 2017/03/17
    日本人は幼少気関係なく自分の祖国の事をもっと勉強させるべきかな。でも大人になったら自分の好きな事をもっと勉強しなくてはいけない。
  • 語り手は「信頼」できるか否か - あざなえるなわのごとし

    www.saiusaruzzz.com 「信頼できない語り手」について少し。 簡単なものですが。 ミステリや文芸の世界において神の視点ではなく主観的な(作中人物の)目を通す作品というのは何かしらのバイアスがかかる。 そもそも「語り手」は、作外の作者が語り手(大)であることもあれば作中の人物が語り手(小)でもある。 ただ読者は、どのような語り手(大小)であっても物語として記述された情報をひとまず信用して、その主観を受け入れ物語を読み解くしかない。 今まさに語っている最中の語り手が信頼できるか否かを判定する方法がないはずだが。「この語り手は最初から最後まで嘘をつかなかったので信頼できる語り手とする」、という結果論があるのみでしょう? つまり「信頼すべきだった語り手」はいても、いま・ここで「信頼できる」という語り手はいない。— アザラシは隠しキャラ (@azarashidayou) 2012年4

    語り手は「信頼」できるか否か - あざなえるなわのごとし