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現代美術グループ・chim↑pomが、広島現代美術館での展覧会に際して、広島市の上空で飛行機の煙を使って「ピカッ」という文字を書いたパフォーマンスをしたところ、被爆者団体から抗議に合って謝罪し、展覧会も自粛する結果にいたった。 広島で生まれ育った僕にとって、こうした即座の謝罪や自粛発表まで含めて、それはヒロシマではありがちな、どこか見た光景でしかなく、正直「ヒロシマ的予定調和またひとつ完成」という感じである。 ゲリラでやる以上は謝罪しては元も子もないし、そんなヒロシマ的予定調和を招きたくなければ、事前に上手く交渉すれば良かっただけの話だ。少なくとも、原爆語りに疑義を呈することがタブーと化している街・ヒロシマで、一朝一夕には問題提起することなんてできるわけがない。60年以上続いているタブー=思考停止の街なのだから。 しかし、その後におこなわれた蔡国強による、原爆ドームそば(厳密には市民球場と
※結構主観に依存する文章になってしまいましたので、それでも結構という方のみ、おつきあい下さい。 体罰を理屈でどれだけ正当化できるかやってみようと思う。 まず体罰を定義する。 体罰:身体的、精神的苦痛を伴う全ての行為。 例:ゲンコツ。お尻ビンタ。5分以上の正座。5分以上の起立。廊下に立たせる行為。グランドを走らせる等の罰。掃除罰。長時間拘束しての居残り勉強。 次に、絶対に体罰はいけないという考えの主な理由をまとめてみる。(参考はhttp://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.asahi.com/politics/update/1026/OSK200810260045.htmlの以下の方々のブクマコメです:解釈の誤解があるとすれば私の責任です。) ・”しつけ”は大人の横暴を隠すための方便。(id:y_arimさん) ・力で人間の心を良い方向に導くことなどできないし
安心して産める社会に=「誰も責める気ない」−死亡妊婦の夫が会見 安心して産める社会に=「誰も責める気ない」−死亡妊婦の夫が会見 東京都内で8つの病院に救急搬送を断られた妊婦(36)が脳内出血で死亡した問題で、夫の会社員男性(36)が27日夜、厚生労働省で記者会見し、「妻が浮き彫りにしてくれた問題を、力を合わせて改善してほしい。安心して赤ちゃんを産める社会になることを願っている」と訴えた。 夫によると、妊婦特有の高血圧もなく健康だった妻の容体が変わったのは4日夕。掛かり付けの産科医院に着くころには頭痛が激しくなり、医師が搬送先を探している間中「痛い痛い」と言い続けていた。「こんなに医療が発展している東京でどうして受け入れてもらえないのか、やりきれない思いだった」。 約1時間後、都立墨東病院での受け入れが決定。救急車では「痛い」とも言わなくなり、「目を開けろ」と言ったら辛うじて開ける状態。
ちょっと保育施設で働く友人が悩んでたから したり顔でふぃんらんど・めそっどを語ったら なんか不服申立てされたので、ちゃんと記事書きます。 テーマは、生徒が悪いことを悪いと思わない場合どうするの?ってこと。 つまり、「なんで謝んなきゃいけないの?」って言われたときに、 「自分が同じことされたら嫌でしょ?」って言っても、 そういう気持ちにならない子に対してはそれは意味のない言葉で、 だけどそういうルールを教えないわけにはいかないし・・・っていう話。 ちょっと小学校のときの体験を思い出したのでまずその話から。 小学3年のとき、クラスの女の子が廊下で嘔吐しちゃって、 それを同じクラスの悪ガキがからかったことがあった。 当時流行ってたWE ARE THE CHAMPのメロディで 「オ~エ~オエオエオエ~」っていう替え歌作って。 それを後で先生が叱ったんだけど、やはりというか、 「○○くんもそういうこ
大阪府の橋下知事ってホント毎日叩かれているよね。よくここまでやるなあというくらい。 そして例によってネットでは(もちろん叩く記事やブログもあるけれど)同時に、その背景を詳説したり異なる見方を提供する論調もたくさんある。 既にあちこちで指摘されていることではあるけれど、そしてまた橋下知事の件にとどまらないのだけれど、ここのところ、この“既存大手マスコミの論調”と“ネット上での世論”の乖離があまりにもパターン化していることに驚く。いや、反対か。驚かなくなっている、という方が正確かも。 既存権力者(団塊世代前後)の広報言論機関である大手マスコミにとって、30代の“若造”が知事という自分たちより“上の”ポジションを獲得するなど“あってはならないこと”だ。一日も早くこいつを“経験の足りない、考えの足りない若造であり、知事になるなど100年早い。”と世間に知らしめなければならない。それが(団塊世代の広
人との適度な距離感が測れなくて、神経を消耗してしまう。だから基本的にひとりでいる。 変に気を使いすぎたり気を使わなさ過ぎたか悩んだりして、家に帰ったあとにドッと疲れる。 社交的な友達(いわゆるリア充かな)とそんな話になったことがあったけど、あんまり気にしないと言ってた。彼女は無意識に自然に距離を図ったり適度な気遣いができてるのだ。あるいは努力をして会得したんだろう。私にはそこまでの努力する精神力すらない。 「慣れてないせいだ」と思って、慣らそうと人間関係の中にあえて飛び込んで見た時期もあった。慣れた部分もあるけど、それは少しばかりで、やっぱり性格的に距離を図るセンスがないと思った。それも甘えだと言われそうだけど。 ひととの距離感に限らず、私は考え方とか全体的にバランスが悪い。変に細かいところを考えすぎたりする。 映画を観たり読書が好きな根っから内向的なインドアで、小学生くらいの時から浮いて
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