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ブックマーク / pikarrr.hatenadiary.org (1)

  • なぜ「デリダ的脱構築」は不可能なのか? - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    神話的暴力と神的暴力 「正義の門前:法のオートポイエーシスと脱構築」馬場靖雄 (http://www.thought.ne.jp/luhmann/baba/gj/gj00.html)を参照に、ベンヤミンの「暴力批判論」、デリダの「法の力」による暴力論を考える。 ベンヤミン「暴力批判論」では法の暴力を、「神話的暴力」と「神的暴力」に分けている。 ・神話的暴力・・・何らかの目的のために行使される暴力 法維持的暴力・・・現存の法秩序を再生産する 法措定的暴力・・・空白状態のなかから新たな秩序を立ち上げる ・神的暴力・・・何ものをも目的としない暴力 いっさいの領域で神話が神に対立するように、神話的な暴力には神的な暴力が対立する。しかもあらゆる点で対立する。神話的暴力が法を措定すれば、神的暴力は法を破壊する。前者が境界を設定すれば、後者は限界を認めない 「暴力批判論」 ベンヤミン 前者(神話的暴力)

    なぜ「デリダ的脱構築」は不可能なのか? - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
    takets
    takets 2008/09/03
    - 神的暴力について。
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