認知バイアス一覧で社会心理学入門 〜社会科学の知の蓄積を活用した社会教育の実現に向けて〜 暁 美焔(Xiao Meiyan) 社会学研究家, 2021.2.6 祝3.5版完成! 疑似科学を生み出すのは人間の思考が本来持っている誤りやすい傾向である。 それ故に「科学と疑似科学の境界」を判断するためには、社会科学の知識は避けて通れない。 ここでは人間の誤りやすい傾向について、人類の英知である「社会心理学」の偉大なる成果である認知バイアス一覧を英語版に基づいて紹介する。 ここに紹介する知識は知っておくだけで人生に役立つ知識である事に間違いない。 これらの概念を紹介する日本語のウェブサイトを探すのが難しい事自体が、日本人が論理的思考をしていない事の証明であろう。 これまで社会科学とは縁の無かった科学技術系の人達が、少しでも社会科学に興味を持っていただく事を祈る。 1. 基本用語 帰属 出来事や他人
生きづらい。不幸だ。格差が広がっている。閉塞感がある。 などなどもう手垢がついた言い回しにすら聞こえるほどここ20年ほどの間、日本は失速してきた。経済的にもデフレが続き、それを一因とした少子化などによって社会も失速していった。それらを解決しようと政治が試みても実質賃金は上がらず人口減が続いている。それに伴い年金は事実上破綻して格差は広がるばかりで、とネガティブな話をすればきりがない。 しかしそれほど生きづらいだろうかとも同時に思う。生きづらいという言葉には外部の条件を示唆するようなニュアンスが含まれている。外部条件として考えた時に日本で生きることが難しいのは本当なのだろうか?僕は生きづらいという言葉には齟齬があると思っている。 自分が置かれている状態を言葉にするのはとても大事な作業である。それゆえ単純に「生きづらい」とワンフレーズで結論づけてしまうことはかなり危うい。特にこういう生きるとい
辞書的に言えば「市民的公共性とは、ハーバーマスが『公共性の構造転換』(1962)の中で提唱した概念。ホルクハイマーらの『人間の理性が頑張っても幸せにならないんじゃないの? だってナチスとか出てきたし』という悲観に対するカウンターとして提出された。ハーバーマスにとっての公共性は人間が自由平等連帯で幸せになっていくためのベースとして存在している」といった感じ。 ~性というのはいかにもベースとして弱そうだが、ドイツ語のÖffentlichkeitは「Public sphere=公共圏」と訳すこともできるというかこっちのほうが適切だと最近は言われている。なので以下では基本的に公共圏で統一する。 で、市民的公共圏って一体何よ?それはハーバーマス自身もよくわかっていないようである。その証拠に大学図書館には「公共圏ってたぶんこういうのだと思います(こういうものだったらいいな)」という本が溢れている。たぶ
6日、オウム真理教事件の首謀者であり教祖・麻原彰晃と、教団幹部6人の死刑が執行されました。おそらくは残りの死刑囚も今後執行されるのでしょう。 この事件については、事件以来ずっと私自身にこだわりがあり、著書の中で何度か触れ、本ブログでも言及しています(「17年目の氷解」)。 今回、死刑執行にあたり、いま自分が考えていることを、書き止めておきたいと思います。 まず、教祖について。 私は、この事件の核心は、麻原の桁外れの権力欲だと思っています。 権力は、暴力と、それを正当化するイデオロギー、制度とで構成されます。 権力は剥き出しの暴力では成り立ちません。他者の支配を暴力だけで行うとすれば、常にその強度をめぐって闘争がやまず、支配は安定しません。暴力を維持し、それを無暗に行使せずに支配するには、暴力を管理しなければならず、その管理が正当であることを主張しなければばりません。イデオロギーを必要とする
日大の危険タックル問題は、ネット中立性の問題と似た構図の、コモンズを巡る立場の違いからくる対立が深層にあるような気がする。 内田監督と宮川選手の意識の乖離と呼ばれているものは、ルールというものを無形のコモンズととらえるか、当事者間のネゴシエーションととらえるかの違いだと思う。あるいは、コモンズと自分の利害をゼロサムゲームと見るか、自分が依拠しているコモンズを維持、発展させていくことにこそ自分の利益の基盤があると考えるかの違い。 そもそも、アメリカンフットボールのようなコンタクトスポーツで思いきりぶつかれるのは、相手に対して「ここまではやるかもしれないがこれ以上はやらないだろう」という信頼があるからだ。それは単なるルールの条文ではなくて、ダイナミックに変化する試合の中のさまざまなシチュエーションを通して、「こういう場面ではこれくらいはOKだけどこれはありえない」という暗黙の合意があるというこ
エマニュエル・トッド (Emmanuel Todd, 1951年5月16日 - ) は、フランスの人口統計学者、歴史学者、人類学者[1]。学位はPh.D.(ケンブリッジ大学・1976年)。研究分野は歴史人口学、家族人類学。人口統計を用いる定量的研究及び家族類型に基づく斬新な分析によって広く知られている。フランスの国立人口学研究所に所属していたが、2017年に定年退職した[2]。2002年の『帝国以後』は世界的なベストセラーとなった。経済現象ではなく人口動態を軸として人類史を捉え、ソ連の崩壊、英国のEU離脱や米国におけるトランプ政権の誕生などを予言した。 エマニュエル・トッドは、フランス人作家のポール・ニザン(1905-1940)の娘アンヌ=マリー(Anne-Marie、1928-1985)[3][4]と、ジャーナリストのオリヴィエ・トッド(フランス語版)(Olivier Todd)の息子と
はあちゅうのこと。 岸氏の言動は擁護のしようがない。セクハラで終わる話ですがそこから派生したはあちゅうの過去の失言と童貞いじり、ヨッピーのはあちゅう擁護は「無自覚の悪人」に関する議論に見えるのですこし書いていきます。 無自覚の悪人、凡人に関する議論。考えること。そこに人間の条件がある。また大きな話にしてすいません。 ハンナ・アーレント(哲学者)がアイヒマン(大量虐殺を実効的に管理していた旧ナチスドイツの役人)を悪人ではないと言って非難された構造が今回の騒動にはあるように見える。 アーレントがアイヒマンを凡人とし非難を受けた経緯 大量虐殺を繰り返したアイヒマンという人物がいた。ナチスドイツに仕えていたアイヒマンは大量虐殺を繰り返した後、処刑された。アイヒマンは処刑が決まった裁判で「自分は上の命令を実行しただけだ」と釈明した。そのアイヒマンの裁判を聞いたアーレントはアイヒマンは悪人ではなく凡人
バンディは、1974年から1978年にかけて、全米でおびただしい数の若い女性を殺害した。被害者の正確な総数はわかっていないが、彼は10年間にわたる否認を続けた後、30人を超える殺人を犯したと自白している。彼は原型的なアメリカのシリアルキラーとして考察される。実際、「シリアルキラー」という表現は彼を表すために考え出されている。IQは124前後と考えられる。バンディの主な殺害方法は撲殺や絞殺であった。少女や若い女性を言葉巧みに誘い、無防備状態にさせてから相手を殴りつけて意識を失わせ、性行為を行う。アナルセックスが気に入りであったとされる。その後殺害し、死体を遠くまで運んで切断し、屍姦を行い、数日後に死体の場所に戻り、切り取った女性の口の中に射精したという。残酷で粗野な殺害方法から、元FBI捜査官ロバート・K・レスラーをして「けだもの」と言わしめた。バンディは、女性を乱暴して殺害することをなんと
古代ローマの不自由な労働 人間は労働する動物だ。そして、自分の労働力を自分のために利用するのは、現代では当たり前のことだ。でも、それがまったく当たり前じゃない社会がかつてはあった。古代の奴隷制社会のことである。 奴隷は、自分の「労働力」を自分のために利用することができない。自分のために働くことができない奴隷の「労働力」は、彼を「購入」し、「所有」する者のためだけに利用される。共和制末期のローマは、まさにそういう奴隷たちの「不自由な」労働を基盤にした社会だったし、少なくとも法律の上では「自由人」の労働が優勢だった帝政期のローマでさえ、奴隷労働はけっして無視できない比重を占めていた。 一人の人間を扶養する費用がそれほどかからない社会、“安い”値段をつけられた人間がそこら中にあふれている社会では、物ばかりか人間(奴隷)までもが商取引の対象になる。奴隷は、自分で歩くことができるので、物と比べて運ぶ
どうしてソーシャルゲームを批判しなければならないのだろうか。僕が子供の頃、「ゲーム」は親にもまわりの大人にもいい顔をされないものだった。一見眉をしかめたくなるものであっても、目の前に現れた新しい「遊び」を安易に非難するべきではない。それは何より、小さな頃ゲームを手にしていた僕たち自身が一番わかっているはずだ。僕が大切にしていたゲームソフトの数々は、一部の「子供じみた」大人と、僕たち子供のためのものだった。 今は状況が違う。今の子供を持つ大人たちは、もう子供だった頃にゲームが身近だった世代だ。今や「ゲーム」は一大産業であり、日本が世界に誇れる文化の一つとしても認められている。ゲームはもう子供だけのものとは言えないし、僕自身ももう子供ではなくなってしまった。 そして、僕は今ここで、「ゲーム」を批判しようとしている。新しく出てきた「ソーシャルゲーム」は家庭用ゲームを越えて、すでに国内のゲーム産業
アフリカーナー(アフリカーンス語: Afrikaner)は、アフリカ南部に居住する白人のうち、ケープ植民地を形成したオランダ系移民を主体に、フランスのユグノー、ドイツ系プロテスタント教徒など、信教の自由を求めてヨーロッパからアフリカに入植した人々が合流して形成された民族集団である。現在の南アフリカ共和国やナミビアに多く住んでいる。 言語はオランダ語を基礎にして現地の言語等を融合して形成されたゲルマン系言語であるアフリカーンス語を母語とする。かつてはブール人(Boer)と呼ばれた(「ブール」〔Boer〕とはオランダ語およびアフリカーンス語で農民の意。"Boer"の英語読みに基づいてボーア人とも表記される)。主な宗教は改革派(カルヴァン派)に属するオランダ改革派教会である。 アパルトヘイト時代の厳密な定義では、オランダ系(同化したユグノーなども含まれる)であること、アフリカーンス語を第一言語と
コンテンツブロックが有効であることを検知しました。 このサイトを利用するには、コンテンツブロック機能(広告ブロック機能を持つ拡張機能等)を無効にしてページを再読み込みしてください。 ✕
この前の日曜に関西に出張したのだけど(法事込み)、朝、新幹線に乗る前に品川駅で朝ご飯用の弁当を買った。 巾着に入ったSuica弁当(1000円也)。 買った瞬間、あーソーシャルグラフのみんなにこのかわいさを教えたい! と思ったw だって人に思わず伝えたくなる要素満載だもん。巾着だけでもカワイイ。で、写真を撮ってツイッターとフェイスブックに書き込んだ。みんなも驚いてあっという間に数多くのRTやいいね!で拡散された。 この「自分のソーシャルグラフに伝えたいかどうか」というのは、今後のコミュニケーションのとても重要なポイントだと思う。 広告で人々に直接コンタクトする方法から、友人・知人(つまりソーシャルグラフ)を通して間接的にコンタクトさせてもらい、情報を広めてもらうコミュニケーションへ。このパラダイムシフトとプラットフォームシフトを心底理解しないと、今後の企業コミュニケーションは作れないと思う
悪魔の民族のための政策としてのリベラリズム Liberalism as politics for a race of devils 2011年11月22日 - スラヴォイ・ジジェク 原文:http://www.abc.net.au/religion/articles/2011/11/22/3373316.htm リベラリズムにとって、少なくともそのラディカルな形態にとっては、人々をある倫理的理想――普遍的であり、それ故に普遍的な拘束力を持つ――に服従させたいという欲望は、個人的見地の他人への暴力的な押し付けに、またそれが故に市民的騒乱に帰結するために、全ての犯罪の源「全ての犯罪を含む犯罪」である。 それが、市民的な平和と寛容を確立するための最初の前提条件は、あらゆる道徳的誘惑を取り除くことだと、リベラルが主張する理由である。政治は徹底的に道徳的理想を追放し、「現実主義的」なものとして描かれ
10月17日の平松邦夫市長を励ます会で「おせっかい教育論-教育基本条例の時代錯誤について」という講演をした。 講演録はそのあと『橋下主義を許すな!』という本に採録された(香山リカ、山口二郎、薬師院仁志との共著、ビジネス社)。 選挙の応援のための、いささか「煽り」の入った本なので、手に取るのを控えた方も多いと思うが、私の書いていることはいつもの原則論である。 教育現場にドラスティックで急激な変化は馴染まない 平松市長から教育関係の特別顧問をと委嘱されて、お引き受けした時に、「大阪市の特別顧問に任ず」という委嘱状を頂きました。紙一枚もらって終わりだろうと思っていたら、いきなり「さあ、これから記者会見です」と言われました。そんな話聴いてなかったので、何の準備もしていない。いきなり記者会見に連れ出されて、「内田さんの顧問としての抱負を」と尋ねられました。何も考えていなかったのですが、そういうときの
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く