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人生とサッカーに関するtakigawa401のブックマーク (10)

  • 久保竜彦、巻誠一郎に会う。12年ぶりの再会(LINE NEWS)

    サッカーW杯の代表選考には、ドラマが付き物だ。 日でもかつて、話題をさらったメンバー発表があった。 その主役として、明暗を分けた2人。 12年ぶりの邂逅(かいこう)は、人知れず実現しようとしていた。 4月15日、熊・えがお健康スタジアム。 東京ヴェルディ戦に備え、会場入りするチームバスを降りたロアッソ熊FW巻誠一郎は、離れて見守る人影に気付いた。 少し近づいて確認する。間違いない。急いで駆け寄り、声をかける。 「タツさん?タツさんですよね!」 短く刈った頭に、無精ひげ。見た目は当時とほとんど変わらなかった。元サッカー日本代表、久保竜彦だった。 再会を喜ぶ後輩に、久保は少し照れたように歩み寄る。ジャージの裾でゴシゴシと右手を拭い、握手をする。 「マッキー、元気そうやな。いくつになったん?」 「38です!」

    久保竜彦、巻誠一郎に会う。12年ぶりの再会(LINE NEWS)
    takigawa401
    takigawa401 2018/06/06
    前編は久保竜彦と巻誠一郎の、後編はジーコと久保竜彦の物語。全オレが泣いた。
  • 昔、私をいじめから救ってくれたヒーローがいた

    思うところがあって、お礼の手紙を書いてみたいと思う。 すごく長くなったけど、どうしても全部吐き出したかった。 子供の頃、ヒーローに会ったことがある。 毎日、小学校でいじめられていた私の狭い世界を、一瞬で壊してくれたその人は、有名なスポーツ選手だった。 いじめが始まったのは、小学校の中学年。たぶん、三年生の後半だったと思う。 いじめの内容は、スタンダードなものだった。 バイキン呼ばわりして、私や持ち物を避ける。 机の上に筆箱を出しっぱなしにしていると、休み時間に奪われて、それで菌のつけ合いがはじまる。 遠足の時の写真が教室に張り出されると、私の顔だけポスカで塗りつぶされる。 お風呂に入ろうが何しようが、臭いだの汚いだの言われる毎日だったけど、途中からエイズとか言われるようになった。 その時期、ニュースでエイズが取り上げられるようになったから、男子が面白がって言いはじめて、クラス中に広がった。

    昔、私をいじめから救ってくれたヒーローがいた
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    takigawa401 2017/07/16
    いい話だなぁ。ちなみに「読売ヴェルディ」ではなく「ヴェルディ川崎」もしくは「東京ヴェルディ」でお願いします。
  • 僕は愚かだった ……永井秀樹が25年のプロ生活でサッカーから教えられた答え - ぐるなび みんなのごはん

    46歳の永井秀樹は 人生の半分以上となる25年間をプロサッカー選手として過ごしてきた。 1992年、国士舘大学を中退してヴェルディ川崎に入ると、 1993年、1994年はリーグ優勝 1995年、福岡ブルックスでJリーグ昇格を決め、 1996年、清水エスパルスでヤマザキナビスコカップ優勝 1998年、横浜フリューゲルスで天皇杯優勝 2000年、横浜F・マリノスでステージ優勝 2001年、ヤマザキナビスコカップ優勝 2005年、FC琉球でJFL昇格 2007年、東京ヴェルディ1969でJ1昇格 2013年、FC琉球でJ3参加承認 そして2016年、東京ヴェルディで引退する。 1991年、バルセロナ五輪アジア最終予選で敗れた後は 残念ながら日本代表のシャツを着ることはなかった。 それでもこれだけのキャリアを誇る選手、 うれしかったことも、怒ったこともたくさんあったことだろう。 そう思って聞き始め

    僕は愚かだった ……永井秀樹が25年のプロ生活でサッカーから教えられた答え - ぐるなび みんなのごはん
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    takigawa401 2017/05/26
    親父さんのエピソードがとてもいい話で、とても重かった。
  • Jリーガーだった。

    Jリーガーだった。 つい先日、取引先の人に「前の会社ではどんな業務をしていたの?」と聞かれた。「プロ契約でサッカー選手をしていました。」と聞かれたら驚かれた。僕はJリーガーだった。でも、かつて所属していたクラブのサポーターですら、僕の名前を聞いてもピンと来ない人も多いだろう。その程度の選手だった。経歴を詳しく書いても、僕のことが分かるのは僕の知り合いくらいだろう。なので書いてみる。 山に囲まれたド田舎に生まれた。7歳で幼馴染とスポーツ少年団に入った。たまたま県選抜に選ばれて、地元の広報に載ったりしてちょっとした人気者だった。小学校6年生の時、県外のプロサッカーチームのジュニアユース入団試験を受けた。もし合格していたら、両親は仕事を辞めて、家族で引っ越す予定だった。ジュニアユースに入っても、そこからトップチームまで昇格してプロになれるのは一握りなのに、仕事を辞める覚悟で応援してくれた。でも僕

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    takigawa401 2017/01/17
    全オレが泣いた。
  • 玉乃淳『25歳の君へ』

    まず最初に言っておかなければならいことがある。引退後はサッカー選手時代の「あの興奮」は二度と味わえないと思っておいても構わない。数万の人達が皆自分の名前を連呼してくれるあの興奮。勝つために、己の存在をアピールするために、自分の全てを感じられる場所。試合に出られない時は当に辛かったよね。跳ねてはいけない箇所の頭髪がどんなジェルを付けてもおさまらないぐらいに跳ねてしまうほどのストレス。真の仲間はそれを「アトム」と可愛くネーミングしてくれたけれど、まだ若い正気な女性は付き合いきれないよね、そんな逆アトムな彼氏。それでもあの場所に立ちたいと思う1分1秒の毎日。あの場所の興奮は味わった君にしかわからないことは良く分かる。でも引退後はね、あの興奮を味わってしまったが故の後遺症は計り知れないんだ。いかんせんなにをやってもつまらなく感じてしまうものだから。引退後に酒やタバコ・異性との遊び・ギャンブルを覚

    玉乃淳『25歳の君へ』
    takigawa401
    takigawa401 2016/02/03
    プロサッカー選手を引退したときの喪失感と、それを払しょくするための方法を自分語りで解説。
  • 『パク・チソン「日本人のイメージは良くなかった」』

    Twitterで見つけた記事。 【韓国サッカー雑誌での智星の インタビューから一部抜粋】 若くて右も左もわからなくてとんがっている時に 日に来て、最初は学校で習ったように日人 に対してのイメージは良くなかった。 でも日々暮らしているうちに全然違うと気づきまし た特に日のクラブに来た日から毎日必ず声を掛 けてくれて、悩んでいる時に相談を聞いてくれた カズさんは人生の師です。カズさんのようになりた いです、と言った時にカズさんが、急に真顔になり 話してくれた言葉は自分の人生を変えるものでした。 「いいかい智星、自国以外でサッカー選手として 生き残るのは当に困難だ、最後までサバイバ ルする選手に一番必要なものは何かわかるかい? 技術じゃない、そのクラスの選手の技術はみんな 同じくらい高いからね、一番大切な事は、サッカー への情熱、一途の献身、毎試合今日死んでも悔い はないという思いで試

    takigawa401
    takigawa401 2012/10/26
    カズがパク・チソンに伝えた「世界で通用する選手になる秘訣」。/この記事はタイトルで損してるよなぁ。釣りタイトルなんか付けずにまっすぐなタイトルにした方が良かった。
  • なぜ日本ではサッカープレーヤーがJリーグを見ないのか?

    小澤一郎(Ichiro Ozawa) @ichiroozawa 先週末、大学の友人結婚式があり、三次会は大学時代のサッカーサークルのOB会になったんだけど、サッカーをずっとやっていた人たちが全くJを見ていない現実に直面。日に戻ってきて、単純にJより海外の方がレベルが高くて面白いという理由だけじゃないんじゃないかと思うようになってきた。 2011-01-31 21:21:21 小澤一郎(Ichiro Ozawa) @ichiroozawa つまりは育成現場の問題で、緩くてもいいから一生サッカーを続ける、エンジョイするような価値観が排除されているんじゃないかと。サッカーばかりやるか、サッカーを捨てるかの二者択一になっているのがプレイヤーを観戦者として取り込めていない日サッカー界の問題の一つかもしれない。 2011-01-31 21:24:40 小澤一郎(Ichiro Ozawa) @ic

    なぜ日本ではサッカープレーヤーがJリーグを見ないのか?
    takigawa401
    takigawa401 2011/02/06
    Jリーグが本来サッカーが好きな人である現・旧サッカープレイヤーにアプローチ出来てないのでは、という考察。教育のせいでサッカーが生涯スポーツとして定着していない、現プレイヤーの活動時間と試合時刻が被って
  • <ノンフィクション> セルジオ越後 「ニッポンを叱り続けた男の人生」(城島充)

    舌鋒鋭い辛口評論家。多くの日人は彼のことをそう認識している。 しかし、日サッカー文化を植え付けたのはいったい誰だったのか? もう一度考えてみて欲しい。セルジオ越後65歳。孤高の伝道師のルーツを辿った。 サッカージャーナリストの草分け的存在として知られる賀川浩は、そのプレーを克明に記憶している。 1974年の日サッカーリーグ(JSL)第4節、ヤンマーと藤和不動産の一戦が大阪・長居競技場で行なわれた。当時のJSLには日系ブラジル人選手を招いて戦力補強するチームが増えていたが、藤和の8番をつけたセルジオ越後も地球の裏側からやってきた助っ人プレイヤーの1人だった。 賀川は来日当初からそのスピードと卓越した技術に注目していたが、この日瞼に焼き付いたのは派手な足技ではなかった。 逆サイドへ長いパスを正確に蹴り出す。広い視野と精密機械のようなコントロールで試合の流れに変化をつけたかと思うと、ペナ

    <ノンフィクション> セルジオ越後 「ニッポンを叱り続けた男の人生」(城島充)
    takigawa401
    takigawa401 2011/01/29
    日本サッカー界を変え続けた男の半生。過剰なまでの辛口で嘲笑の対象になることもあるが、彼のおかげで今のアジア杯の日本代表の活躍がある事も忘れちゃ行けない。
  • 岡田武史氏が語る、日本代表監督の仕事とは

    早稲田大学は12月11日、ICC(早稲田大学国際コミュニティセンター)開設3周年記念「働く杯」を開催、特別講演でサッカー日本代表監督の岡田武史氏が自らの仕事に対する姿勢を語った。 岡田氏は早稲田大学卒業後、古河電気工業(ジェフ千葉の前身)や日本代表でディフェンダーとして活躍し、1990年に現役を引退。引退後は指導者の道を歩み、ジェフ市原コーチ、日本代表コーチを経て、フランスW杯最終予選では更迭された加茂周氏の後任として日本代表監督に就任、日を初のW杯出場へと導いた。その後はJリーグのチームの監督として年間王者に2度輝き、2007年からはイビチャ・オシム氏の後任として再び日本代表監督を務め、南アフリカW杯への出場を決めている。 勝っても違和感があった 岡田 僕はフランスW杯の日本代表監督を辞めた後、J2のコンサドーレ札幌の監督に就任して、2000年にJ2で優勝してJ1に上がって、J1で1年

    岡田武史氏が語る、日本代表監督の仕事とは
    takigawa401
    takigawa401 2010/06/25
    半年前(2009/12)にも読んだ記事。内容が違って感じるのは、岡田監督でも記事の内容でもなく、オレ自身のせいだということ。自分が卑怯なクソ野郎だと痛感した。
  • https://www.jsports.co.jp/press/column/article/N2009080313254902.html

    takigawa401
    takigawa401 2009/08/03
    中立の立場から見ると、吉田主審の笛は公平に見えたらしい。オレには勿論川崎よりの不公平なジャッジに見えた。
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