慶長20年(1615年)4月に勃発した大阪夏の陣は、冬の陣で大阪城の堀を埋められた豊臣方は野戦を挑むしかなく、後藤又兵衛(基次)が先陣となって河内方面に出撃し、現在の大阪府柏原市の「玉手山公園」付近が後藤又兵衛の最期の地となりました。 この戦いは、後続の真田幸村や明石全登らが霧の発生で到着が遅れるなど不運もあり、又兵衛は2,800の軍勢で徳川方の総勢23,000に挑みます。初めは優勢でしたが兵力の差には勝てず6時間の激闘の末、又兵衛は命を落とします。そして、翌日の5月7日に大阪城は夜空を炎で照らし陥落。現在、この玉手山公園には「大阪夏の陣の供養塔」が静かに建っています。 玉手山公園に残る後藤又兵衛基次の碑 大阪夏の陣の供養塔が残る玉手山公園一帯は小松山と呼ばれ、後藤又兵衛が最後に陣を構えたと言われています。そして山を下り圧倒的多数の徳川方の諸隊と激突。そして又兵衛は「矢傷を負って」とも「鉄