マスコミ各社の運動部長、もしくはそれに準ずる役職の人間が選考委員となり、総数54の1回投票で選定する[1]。選考委員が属するマスコミとは、三大紙を始めとする一般紙、スポーツ紙、夕刊紙、地方紙、通信社、英字新聞、在京テレビ局、地方局、UHF局、衛星放送、AM・FM全局と一部の地方局が連なる[1]。この記者投票制で選考するようになったのは、7年目の1974年からである[1]。 第6回目までは大賞候補として、数名の選手を事前にエントリーし、組織の理事による内々の投票で決めていた[1]。候補者の属する競技の代表者が全体会議の場で、推す候補者をアピールする演説をした後に、投票が行われていた[1]。 後年、同協会の副会長となる山口弘典によると、当時の同賞は参加団体の親睦会程度のもので、読売新聞社への配慮もあり、隔年で読売が推す候補者が選ばれてきた[1]。第6回の1973年は、三冠王獲得、野村克也の通算