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先日、プログラム上では理想が築ける気がするのでついつい手を加えつづけてしまうという話を書きましたが、そうはいってもやはり納得のいくまできっちりと作り上げないと気がすみません。特に、お客様に製品として納品する場合はなおさらです。 ある一つの機能を実現させるためには、たくさんの方法が存在します。とりあえず動けばいいというプログラムから、向こう何年間、機能を徐々に追加変更していきながら使い続けられるシステムまで千差万別です。そして、できる限り後者のような、いつまでも世に残るようなものを作りたいものです。その場限りで使い捨てられてしまうようなものを次々と作るのは虚しいものです。 と、いうようなことを考えているときちょうど友人に素晴らしい記事を教えてもらいました。Paul Grahamという方のコラムの翻訳です。 http://www.shiro.dreamhost.com/scheme/trans
Rauru Blogの「確かに、まず日本語ではあるが」に引用されていた、以下の言葉にピンとくるものがあった。 <したがって結論として言えば、私は単純に日本語をロジカルにしようとする努力には疑問を感ずる。日本語の目的はロジカルな対話とか議論による決着にあるのではなくもっと別のところにあるのだろう。それは比較的均質な人間集団がまとまって行動するために「雰囲気」を作るコトバとして発達したのであろう。上下関係と対面を気にし、しかも嫉妬心が強い社会の中で上下に自己実現をはかるためには欠かせない表現手段だと思う。それはそれで非常に大事なことではないか。ロジカルな表現で議論する必要があるなら、それに適したコトバでやるほうがよい。英語でやるほうがよい。日本人同士でも。これからは、それができる教育が必要だと思う。そしてその影響が自然に日本語にもおよんで来るというのが、実際的な解決だと思う>。 私も、日本語は
仕事には毎日毎日の定常業務・いつもの仕事=ルーチンワークと、突発的な仕事=非ルーチンワークがあると思いますが、時間の使い方として非ルーチンワークの方から手をつける方が良い結果になることが多いんじゃないかとふと思いました。 非ルーチンワークというのは、朝突然「これをやろう」とアイデアを思いついたとか、社内で話しをしていて急遽行う事になった、みたいなタスクで、こういう仕事が発生すると「まあ待て。とりあえず今日やるつもりだったいつもの仕事を終わらせてから取り掛かろう」という人と、「なんだか面白そうだし新しい事をやってから残りの仕事を片付けよう」という人に分かれるような気がします。 ところが、「定常業務を終わらせてから手をつけよう」と思っていても、定常業務は仕事時間を全部使い果たそうとする性格がありますので(ありますよね、何でなんでしょう?)、結局その日には手がつけられない、みたいな事になりがちで
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