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2011年3月15日のブックマーク (5件)

  • [B! 原発] sarutoraのブックマーク

    山口地裁は中国電力が上関町長島で進める上関原発埋め立て準備工事をめぐり、予定地海岸で工事を阻止している同町祝島の上関原発を建てさせない祝島島民の会と島民ら12人に対して申し立てた間接強制で、工事を妨害した場合、1日当たり1人、1団体それぞれ70万円の支払いを命じる決定をしたことが29日明らかになった。 決定は25日付。申し立てでは1日につき連帯して936万771円の支払いを求めていた。山口地裁が2月21日、県の埋め立て許可の交付により中電の工事区域での妨害行為を予防する権能があるとして陸域での工事妨害禁止を求めた仮処分を認めたことから、中電の間接強制の申し立てを相当と認め、海岸や陸域での妨害行為を一切してはならないとした。 これに対し、同島民の会の山戸孝さんは「われわれの意見を一度も聞かずに決定するのはおかしい。住民の権利や意思を軽視している」と憤っている。同会は決定を不服として広島高裁に

    thir
    thir 2011/03/15
    原発関連の記事がまとまっているので、読む。
  • モジモジ君の日記。みたいな。 - 「対案を出せ」論法について

    何かについて批判的なことを言うと、すぐさま「だったら、どうするんだ、対案を出せ」などと恫喝される。これは不当だ。しかし、私たちは、ある瞬間を空白にしておくことはできないのであり、そこに何かがなければならないなら、やはり対案は必要なのである。とすれば、先の不当さは何に由来するのか。ここにあるズレをきちんと見ておかなければならない。*1 「対案を出せ」論法批判 批判は、あくまでも問題の所在を示す。その解決が可能かどうかは分からない。大抵、示せない。しかし、それが問題であるならば、明らかに問題なのだ。たとえば、必ずしも死ななければならない理由がないのに、人が死ななければならなくなっているとき、それは問題だ。そのような状況は、「あってはならない」こととして認識されなければならない。そのようなことが「現実に起こらない」ために、何かをしなければならない。私たちは現にある現実を、そのどこかを、変更しなけ

    モジモジ君の日記。みたいな。 - 「対案を出せ」論法について
    thir
    thir 2011/03/15
  • (元)登校拒否系 - 2007-09-23 「対案についての思考」を禁止します

    腹減ったなー。よし、一杯やるか。お! 白木屋があるじゃん。ここに入ろうぜ。と、誘ってるのに、「白木屋はイヤだ。白木屋以外がいい」という返事が返ってきたら、ムカつきますよね? 白木屋がダメなんだったら、じゃあどこがいいっていうんだ。他にもっといいところがあるのか。具体的な対案もないのに「白木屋以外がいい」って何事? 10秒以内に別のより良い候補を挙げなかったら白木屋に入っちゃうよ! と言いたくなります。 これに対して、「「対案を出せ」論法について」の前半でmojimojiさんが書かれているのはこういうことです。もちろんどの店にも入らないというわけにはいかない。けど、もし「白木屋はイヤだ」という批判を真摯に受け止めるのであれば、白木屋よりもマシな店を見つけるということは、白木屋を提案した側、白木屋に異議を唱える側、双方にとっての課題となるはずだ。なのに、対案を見つけるという責任が白木屋に異議を

    (元)登校拒否系 - 2007-09-23 「対案についての思考」を禁止します
    thir
    thir 2011/03/15
  • 「じゃあどうすればいいか」について - 猿虎日記

    mojimojiさんが、「対案を出せ」論法について書かれていらっしゃいます。 http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20070922/p2 これは、まず「対案を出せ論法批判」が書かれ、最後に、いわば「単純な『対案を出せ論法批判』批判」が書かれる、という構成になっているわけですが、ところが、この記事についたはてなブックマークを見るとhttp://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20070922/p2 *1、前半の「対案を出せ論法批判」に対する反発が噴出しています。これを見ても、いかに「対案を出せ論法」が人々の間で強い勢力をもっているかがわかるような気もします。 で、ちょうど昨日、電車に乗っていたらこんなことがありました。私の隣に、20代ぐらいの男女のカップルと思われる人が座っていたのですが、女性が

    「じゃあどうすればいいか」について - 猿虎日記
    thir
    thir 2011/03/15
    "「問題提起を人々ががっちり受け止めた時、その時が即ち『じゃあどうすればいいのか』と言える時」だ、と言って、「対案論法」を痛烈に批判します。"
  • 「誰かが犠牲にならなければならない」ものは、システムとして欠陥がある - Thirのノート

    原発に関して、「誰か(具体的には復旧に当たっている東電社員や自衛隊員)が命や健康を犠牲になれば、原発自体は全く危険なものではない」という言説が散見できる。即ち「危機的な状況に陥っても、復旧作業を行えば何も地域全体が危険にさらされることはない、もちろんその復旧作業には危険が伴うが」と。 しかし、そのような、「緊急時には誰かが危険を伴う作業をしなくてはならない、あるいは命を犠牲にする覚悟を持たなくてはならない」ようなシステムは、そもそもシステムとして自己犠牲を内在化しており、その点においてこのシステムは全体として欠陥である。ゆえに、現時点において(あくまでも現時点において)原発というものが、いざというときにそのような犠牲を必要とするのであれば、そのようなものは消えてしまえばいい。 そして犠牲者は英雄となり、英雄となるという事実があることで犠牲は社会において再び要請される。映画「ハルマゲドン」で

    「誰かが犠牲にならなければならない」ものは、システムとして欠陥がある - Thirのノート
    thir
    thir 2011/03/15
    id:mojimoji 挙げて頂いてありがとうございます。追加しておきました。