1923年(大正12年)12月27日、皇太子裕仁親王(後の昭和天皇、当時22歳)が摂政として第48通常議会の開院式に出席するため、貴族院へ向かうため御料車(自動車)に乗り、午前10時35分に皇居を発った[2]。 10時40分頃、皇太子の御召自動車は虎ノ門外(虎ノ門公園側)を通過中、芝区琴平町一番地西洋家具商あめりか屋前の群衆の中にいた難波大助が警戒線を突破して接近し、ステッキ仕込み式の散弾銃で狙撃した[2]。銃弾は皇太子には命中しなかったが、車の窓ガラスを破って同乗していた東宮侍従長・入江為守(入江相政の父)が軽傷を負った[2]。自動車はそのまま目的地の貴族院に到着[2]。その時点で周囲が初めて入江の出血に気づいた。 なお、皇太子は事件後側近に「空砲だと思った」と平然と語ったとされている。皇太子は貴族院での開院式を終えて赤坂区の東宮御所に戻り、内閣総理大臣山本権兵衛・警視総監湯浅倉平や皇族