昭和二十年八月九日の太陽が、いつものとおり平凡に金比羅山から顔を出し、美しい浦上は、その最後の朝を迎えたのであった。川沿いの平地を埋める各種兵器工場の煙突は白煙を吐き、街道をはさむ商店街のいらかは紫の浪とつらなり、丘の住宅地は家族のまどいを知らす朝餉(あさげ)の煙を上げ、山腹の段々畑はよく茂った藷の上に露をかがやかせている。東洋一の天主堂では、白いベールをかむった信者の群が、人の世の罪を懺悔(ざんげ)していた。 長崎医科大学は今日も八時からきちんと講義を始めた。国民義勇軍の命令の、かつ戦いかつ学ぶという方針のもとに、どの学級も研究室も病舎も、それぞれ専門の任務をもった医療救護隊に改編され、防空服に身を固め、救護材料を腰につけた職員、学徒が、講義に、研究に、治療に従事しているのだった。いざという時にはすぐさま配置について空襲傷者の収容に当たることになっており、事実これまで何回もそうした経験が