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critiqueとgameに関するtokadaのブックマーク (7)

  • 一人のヒロインを選ぶ尊さからの逃避 - シロクマの屑籠

    君が望む永遠 ~Rumbling hearts~(通常版) 出版社/メーカー: プリンセスソフト発売日: 2003/05/01メディア: Video Game クリック: 38回この商品を含むブログ (15件) を見る 一人のヒロインを選ぶ尊さは、他のヒロインを捨ててこそ保たれる筈なのに。 例えば、十年以上前のPC-98版『同級生2』は、その自由度の高さも手伝って、どのヒロインを選び、どのヒロインを選ばないのかの自由がプレイヤーにほぼ完全に任されていた。その気になれば、二股、三股をかけることだって出来たし、特定の一人を一途に追いかけることも可能だった。しかし二股以上が成立していたとしても、最終日には必ず一人のヒロインを選択し、他のヒロインを“振らなければならなかった”。 一人のヒロインを選ぶ以上は、他のヒロインは捨てなければならない。 このシステムは、一人のヒロインを選ぶという事の意味や尊

    一人のヒロインを選ぶ尊さからの逃避 - シロクマの屑籠
  • ゲーム研究における道具論、作品論 - GOD AND GOLEM, Inc. (はてなダイアリー倉庫版)

    今のところ考えているうち、もっとも抽象度の高い話を投げてみます。 全体として統一感があるわけではないので、節ごとに全然別の話をしている、というくらいの気持ちで読んでいただければと思います。 設計・運用・受容 自分がTRPGについて書く時、いつも念頭に置いているのは「設計/運用」という二区分です。 〈システムデザイン〉を褒めるためには、それを運用して現場に〈ゲーム〉を実現する〈マスターリング〉の技術について考察する必要があると考えているのは、その「設計/運用」の分類があるからです。 そんなことを考えながら今日iPhoneのFlick式入力について話していたのですが、そこではたと気がついたことがありました。私がTRPGを通じて考えていることというのは、要するに「インターフェイス、ツール、道具」と「人間、集団、社会の関係」なんだな、ということです。モノと人とのかかわり、あるいはモノづくりの人と、

    ゲーム研究における道具論、作品論 - GOD AND GOLEM, Inc. (はてなダイアリー倉庫版)
  • 青土社

    『タイミングの社会学』(石岡丈昇著) 町田樹氏「今読むべき一冊」・・毎日新聞 2024年3月4日 [2024年3月5日] 『現代思想2024年2月号 特集=パレスチナから問う』(著) 板橋拓己氏「論壇委員が選ぶ今月の3点」(論壇時評)・・朝日新聞 2024年2月29日 [2024年2月29日]

  • 『文芸批評家のためのルドロジー入門――ゲーム定義のパースペクティヴ』

    2009年 1月30日 高橋志行(godandgolem.inc*at*gmail.com) スパム対策のために@を *at* と表記しています。メール送信時には、ここを半角 @ に直して宛先として下さい。 1.はじめに――ルドロジーとは何か 論稿の目的は、読者諸氏に「ルドロジー」と呼ばれる新たな学問の潮流を紹介しつつ、ゲームを語ることばについての一定の視座を提供することである。 まずは「ルドロジー」について説明したい。これは、フィンランドの研究者であるゴンザロ・フラスカ(Frasca 1999)が提唱した、遊びやゲームを専門に取り扱う学問の潮流を指す。20世紀末まで、遊びやゲームをめぐる人文学的な考察の多くは、主に文芸批評、つまり物語論(ナラトロジー)的な立場から行われることが多かった。それに対してフラスカは、あくまでゲーム「それ自体独立したもの」として研究するアプローチ(Lu

  • 稲葉先生のFate読解は間違っているのではないか - 最終批評神話 / リサイクル

    村上 | 00:22 |  稲葉先生(id:shinichiroinaba)がFate論をお書きになっている。 [メモ]『オタクの遺伝子』続編のための覚書  http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20090215/p1 [メモ]批評の方法としてのファンフィクション(続)  http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20090218/p2 メモと仰いつつもかなり重厚な一編いや二編なのだが、読んでいてどうなのそれと思うところが出てきてしまったので、勝手な反論をしようと思った。■その一、Fateとひぐらしは似ているのか問題。 似ているともいえるし似ていないともいえるこの二作は、たとえば東さんの手引きに従えば、シナリオの展開の仕方が固定されており、選択肢の役割が事実上無化されている。この点では、確かに似ている。つまりひぐらしに

  • ゲーム批評はいかにあるべきか - らいたーずのーと

    ■ 既存のマンガ批評に対する苛立ちから「マンガ表現論」を立ち上げた伊藤剛、そして、その方法論をアニメ批評に対しても応用し「アニメ表現論」を立ち上げた黒瀬陽平、あるいは同様に新しいマンガ論を試みる泉信行。近年、従来のサブカルチャー批評において中心であった「物語論」から脱却し、各種サブカルチャーの「表現論」を志向する論文が多数提出されている。だが、そのような形で「批評」から取り残されてきたのはマンガやアニメだけではない。特に90年代以降の若者文化の中ではマンガやアニメ同様にサブカルチャーの代表的メディアであると認知されながらも、「物語論」すらまともに行われてこなかった文化――それが、「ゲーム」である*1。 ■ そのような問題意識は、若手批評家の立場から少しずつではあるが提示されてきている。『筑波批評』2008年秋号(ゼロアカ道場破り号)に掲載された高橋志行氏による「文芸批評家のためのLudol

  • ケータイ小説の環境/神話とは何か2 - 仮想算術の世界

    東浩紀さんのブログの記事に引っ張られて、濱野智史氏の「恋空」論(3)を読んできました。このブログの読者ならおわかりのとおり、僕は現代文化を「神話的操作」のシステムとして読むことをずっと提案しているわけですが、濱野さんのエントリーはまさに『恋空』をケータイ的な「操作ログ」の集合として扱っている。共感するところ大でした。 ところで、濱野さんは後半で、東浩紀さんの言う「ゲーム的リアリズム」とケータイ小説の「操作ログ的リアリズム」を分けています。ただ、僕の印象だと、ゲームとケータイというのは必ずしも対立するものではない。むしろゲームもケータイも、同じ現象の二つの枝分かれとして読める側面があります。それはまさに、前回のエントリーで説明した「神話」の問題です。 いきなり些末な世代論になるかもしれませんが、たぶん濱野さんや僕の世代(80年前後生まれ)は、物心ついた段階で「遊ぶこと≒テレビゲームするこ

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