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ブックマーク / pikarrr.hatenadiary.org (21)

  • 安楽死2.0とウェブ労働で対価をもらう可能性 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    1) コンビニエンス化では感情的サービスはセルフサービスを前提とする。 2) 介護2.0 3) 民主党が救う「可哀想な取り残された下層」は存在するか。 4) 安楽死2.0 5) ウェブの発達はコンビニエンス化を加速した。 6) ウェブはウェブと実社会の二重の労働を求める。 7) ウェブに課金システムを広めてウェブ労働で生活できる人々を増やすことはできないか。 1) コンビニエンス化では感情的サービスはセルフサービスを前提とする。 現代のポストフォディズムの労働では、創造的で知的な労働とルーティン作業の分裂が起こり、格差の元になっている。セルフサービスとは、個人の中でこのような分裂が起こる。ルーティン作業を貨幣依存し処理しつつ、創造的知的操作をセルフに任せる。 コンビニエンス化とは、創造的知的操作をセルフサービスとすることで、売り手は情報技術による効率化を進め、低コスト化、他者回避を進める販

    安楽死2.0とウェブ労働で対価をもらう可能性 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
    tomad
    tomad 2009/12/21
  • 言語ゲームというリズム その1 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    お経のリズム たとえば宗教の基は反復です。意味のわからないお経を繰り返し、祈りの動作を繰り返す。これってすごく「言語ゲーム」なんです。宗教の教え=規則を理解すること以上に訓練し習慣化させること。これによって「言語ゲーム」に深く引き込まれていく。 教えを理解することが重要ではなく習慣の先に悟りがある。これに対して哲学はたえずみずからをみずからの言語ゲームのメタ位置にたとうとする運動といえるかもしれません。しかしウィトゲンシュタイン的にいえばほんとにメタ位置は存在するのか、ということでしょう。なんらかの言語ゲームに帰属しないとコミュニケーションそのものが不可能で、それは習慣として深く刻まれている。 お経や呪文の重要なところは「リズム」です。それはある種の音楽音楽は運動性であり、言語理解と異なる経路で体にしみ込み、刻まれる。反復することで訓練される。たとえば軍隊の訓練でもリズムが重視されます

    言語ゲームというリズム その1 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • 経験主義について考えてみた - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    ヒューム 自生的秩序(コンベンション) ボクの立場はとにかく経験主義です。経験主義的な立場とはまず「自生的な秩序」があるということです。このような経験主義を明確化したのはヒュームでしょう。ヒュームは自生的秩序をコンベンション(慣習)と呼びます。合理主義や法など言語活動はいつもコンベンションの後から来る。そしてこのような合理主義は重要ではあるが必ず失敗する。それは言語の限界であって、知の限界です。 そして注意する必要があるのが、言語表現の軽さです。言語表現はすべてを軽いものにしてしまう。操作可能にしてしまう。そこに失われる「重さ」は、コンベンションに繋がっています。コンベンションは環境であり、そして環境と接する身体です。いくら言葉で語ろうが容易に変化しない重さ。それは、物質的な環境であるとともに人そのものです。人は生まれ落ちた環境、文化、社会、関係性などに密接に結びついて切り離すことができな

    経験主義について考えてみた - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
    tomad
    tomad 2009/07/23
  • なぜムラ社会「2ちゃんねる」は終焉したのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    洗練されるネット社会 ブログをはじめてから5年、定期的にネット界隈について語ってきたが周りの様子も大きく様変わりしたなと思う。単にネットサービスの変化だけではなく、そこに「住む」人々の様相も変化した。たとえば、 ・ネット/実社会の境界が薄れた・・・かつてはネットというものに実社会とは異なるものを見いだしていた。 社会事態もネットというものを特別なものとして見ていた。もはやそのような境界は薄れている。 ・匿名性が薄れた・・・それとともに、ネットでは匿名であるということが薄れた。実社会を連続的にネットで生活する人々が増えた。 ・フレーミングが減った・・・かつては炎上といえば、議論の白熱のことであった。ネット上の議論は互いに真剣であるほどに白熱し、プライドをかけたものになった。しかし最近、炎上といえば、失言に対しての攻撃の意味であって、以前のような過熱した議論をみなくなった。ネット上のコミュニケ

    なぜムラ社会「2ちゃんねる」は終焉したのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
    tomad
    tomad 2009/07/21
  • 非金銭経済の可能性(改訂) - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    1 「生産消費者(プロシューマ−)の復活」 2 「資主義活動」という社会的寄生物 3 「創造消費者(ネオプロシューマー)」の登場 4 Googleはトフラーの夢をみるか 5 アーキテクチャの経済性 6 環境対策でこそ生産消費者は復活するか 1 「生産消費者(プロシューマ−)の復活」 非金銭経済から金銭経済へ アルビン・トフラーは1980年の著書「第三の波」(ISBN:4122009537)の中で消費者が生産に加わることを、消費者(consumer)と生産者(producer)を組み合わせた造語としてプロシューマー、生産消費者(prosumer)と呼んだ。 生産消費者(プロシューマー)はなにも特別な人ではなく、炊事洗濯掃除などの家事仕事から自己学習、趣味など、「販売や交換のためではなく、自分で使うためか満足を得るために財やサービスを作り出す」という誰もが普段行っている非金銭経済活動である。

    非金銭経済の可能性(改訂) - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
    tomad
    tomad 2009/06/15
  • ネット上の革命はすでにはじまっている? - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    ネット上に新たな経済活動は起こらなかった ネットが一般に普及して10年以上たったが、かつて「グローバルビレッジ」に代表されるような期待された「革命」は起こらなかったようだ。この理由の一番は、ネット上に新たな経済活動が起こらなかったためではないだろうか。 確かにネットの普及によって、企業活動は迅速に活発になった。またネット上に新たなビジネスも生まれた。しかしこれらは従来の資主義経済の延長上のものであって、下部構造としての経済活動そのものはかわることはなかった。 多くの人々はかわらず企業へ労働力を売ることで賃金を稼ぐ。ネットはこれとは別に社会関係を楽しむ娯楽である。すなわちネットは新たな経済構造生み出すことなく、社会的な関係を充実されるつながりのツールでしかない。 ネット上の社会関係のために実社会で働く ネット上では掲示板やブログなど長時間かけた活動が行われているが、そこでおこなわれる労力は

    ネット上の革命はすでにはじまっている? - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
    tomad
    tomad 2009/05/15
  • なぜブローデルは透明な市場を夢見るのか フェルナン・ブローデル 「交換のはたらき」 その1  - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    1)交換のはたらき 2)ミステリー 資主義 3)資主義活動/経済生活/物質生活 4)交換の透明な形態 5)「商店」は「資主義活動」の初期形態 6)資主義活動と信用売買 7)ポランニーの共同体主義とブローデルの個人主義 8)透明な貨幣交換と贈与交換のシミ 9)信用(贈与)関係から信用売買へ 10)資主義という権力の増幅器 1)交換のはたらき 「資主義社会はどのようにはじまったのか」に興味があり、いくつかを読んでいる。テーマは歴史の大テーマでありいろいろとが出ているが、その中でも、ブローデルの「物質生活、経済、資主義」は必須だろうと読み始めた。三部作で、日版ではそれぞれが2冊に分かれて、各値段がすごい。とりあえず、がんばって2部の「交換のはたらき」2冊を購入した。まずは「交換のはたらき1」を読んだ感想と、独自の考察をしてみる。 「物質文明・経済・資主義―15-18世紀」

    なぜブローデルは透明な市場を夢見るのか フェルナン・ブローデル 「交換のはたらき」 その1  - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • なぜ「みんなロックで子供でいられる」のか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    「みんなロックで大人になった」 NHK-BSの世界のドキュメンタリーで「みんなロックで大人になった」を見た。7回完結でロックの変遷をたどる。 「みんなロックで大人になった」  http://www.nhk.or.jp/wdoc/backnumber/detail/090105.html 第1回 ロックの誕生 第2回 アート・ロック 第3回 パンク・ロック 第4回 ヘビーメタル 第5回 スタジアム・ロック 第6回 オルタナティブ・ロック 第7回 インディー・ロック いろいろなポップミュージックを聴くが、どうしてもヘビーメタルは好きになれない。音がうるさい、暴力的ということではなく、なにか「ダサく」て生理的に苦手という感じであったが、番組の「ヘビーメタル」の回で、「ヘビーメタルは癒しのヒーリングミュージックである」という言葉を聞いて、好きになれない理由がなんとかくわかった気がした。 ロックミ

    なぜ「みんなロックで子供でいられる」のか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • なぜグローバリズムは経済的コンベンションなのか 下部構造としてのコンベンション - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    「万人に対する闘争」と慣習(コンベンション) 慣習(コンベンション)とはなにか。「コンベンション」は近代化の中で社会秩序はいかに可能であるかという議論からきています。ホッブズは「リヴァイアサン」(ISBN:4003400410)の中で自然状態では「万人の万人に対する闘争」が起こるので一人の主権者へ統治を委ねる。それが社会契約としての国家理性であると言いました。ここから様々な思想家が議論を展開しその後の思想へと繋がってきます。 その中で、ヒュームはまずあるのは「万人に対する闘争」ではなく、人々がいればそこにすでに慣習的な秩序(コンベンション)があると言いました。コンベンションは、慣習、黙契など様々に訳されますが、主権者の法による統治以前にある自生的、暗黙の社会秩序です。ヒュームは新たに施行される政策や法よりも、統治においてはコンベンションを重視すべきであると保守思想を主張しました。 構造主義

    なぜグローバリズムは経済的コンベンションなのか 下部構造としてのコンベンション - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
    tomad
    tomad 2009/01/10
  • なぜ「ブランド」を求めるのか コンベンションと統治技術 その2 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    「ブランド」というコンベンショナルな信頼関係 資主義は経済学的な理念として完全競争をめざすことが求められるが、実際に企業が利益をえるためにはいかに完全競争を回避するか、いかに他社と差別化するかが重要になる。そのためには様々な方法が駆使される。技術、あるいはビジネスモデルを新規開発することに力を入れるのもそのためだろう。新たな有効性を開発すれば、他社がそこに追いつくまでの間、市場を独占することができる。 完全競争を回避するもっとも有効な方法は、買い手とコンベンショナルな継続した信頼関係を結ぶことである。それによってその買い手を独占できるからだ。それが「ブランド」戦略である。ここでいう「ブランド」戦略は俗に言う消費者にむけた商品ブランドのPRももちろんであるが、たとえば企業間の様々な取引も、一度限りの貨幣交換ではなく、継続したコンベンショナルな信頼関係へと継続することである。 ブランド名を批

    なぜ「ブランド」を求めるのか コンベンションと統治技術 その2 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
    tomad
    tomad 2008/12/01
  • なぜ東浩紀はすごいのか。 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    「動物化」という新時代宣言 東浩紀を象徴する言葉といえば「動物化」でしょう。「動物化」という考え方は既存言論のカウンターと位置づけられます。日の言論文化には文化サヨ的(主知主義的)な傾向が根強く残ります。「世界を理解しつくし世界を設計しなおせる。」このような傾向は東の登場前にすでに時代遅れなものと考えられ、パロディ、アイロニーへの転倒が行われていました。しかしこのような転倒さえ重たい。そこにはまだ言葉(思想)への執着がある。すでに若者はもっと軽く、世界にアディクションしていると訴えたのが東の「動物化」です。 これは社会への訴えというよりも、言論文化への訴えの意味が大きいでしょう。それまで時代の寵児とされていた浅田や宮台なども、もはや新たな若者文化からはズレているという新たな世代の言葉の到来を宣言したといえます。 そしていつの時代も一定数いる言論少年たちはいままでの言論を言語過剰で古いもの

    なぜ東浩紀はすごいのか。 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
  • ドゥルーズ 管理社会と規律訓練 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    −−−−貴方は、精神分析学批判としていますが、このあくまでパラノイア系神経症への転移による治療を批判し、スキゾ系については無批判であると言うドゥルーズに対する私の見方については、どのように考えるのでしょうか。根的に、貴方の精神分析学批判についてどの様に考えているのか、何を問題としているのでしょうか。 精神分析は言葉によって治療するのですから、心的要因である神経症を対象としたものです。そして器質(身体)的要因が関係するとされる分裂病(精神病)は対象外です。その後、ラカンは精神病も精神分析で説明しようとしますが。ドゥルーズは精神分析が構造主義として知の権威となり、神経症重視した人間像が重視される中で、その反論として分裂病的な人間像を対置させます。ドゥルーズが分裂病を重視するのは流動性を強調するためです。精神分析=神経症=言語に対峙して、分裂病=器官なき身体=リゾーム(=管理社会)。 ドゥルー

  • なぜ犯罪が暴力化するのか 動物化論の限界 その1 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    1)欲求、欲望、享楽 まず欲求、欲望、享楽の違いについて、わかりやすく「」を例に説明しましょう。 欲求・・・「動物」的。空腹だ→べた→満腹だ。 欲望・・・「人間」的。みんな(他者)が望むものがほしい。彼がべているラーメンうまそうだいやテレビでやっていた寿司がうまそうだいやおしゃれなレストランでべると味が違うよね。たくさん頼んでちょっとずつべるか・・・と終わりがない。たかだが60億人で地球の資源の枯渇が問題になっていますが、人も動物のように欲求するだけならこのようなことはおこらないでしょう。 享楽・・・「狂人」的。すべてのものはべ飽きた→あとべてみたいものは人肉だけだ。享楽は近親相姦など社会的なタブーに関係します。より日常的にいえば拒症や過症など。 2)社会学的な動物化論 「動物化」とは、豊かな社会では容易に料が手にはいるために、もうあれをべたい、これをべたいという、

    なぜ犯罪が暴力化するのか 動物化論の限界 その1 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
    tomad
    tomad 2008/07/22
  • なぜゾウの群れは地震発生前に山に駆け上って難を逃れたのか - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    pikarrr 言語コミュニケーションは「規則」だけでは成立しない。「規則」という明文化以上のなにかがなければ、コミュニケーションは成立しない。ウィトゲンシュタインはこれを「言語ゲーム」とよんだ。 wisteria-1 規則が機能するには、同時的なもの異時的なものを問わず、なにがしかの「共同体」の存在が前提となる。 pikarrr なにがしかの「共同体」だけでは、猿でもありますよ。 考える名無しさん 実際サルやイルカには鳴き声に原始的なコードがあってそれによって或る程度の情報を伝え合っています。 ヒトとそれ以外の動物で全くコミュニケーションの質が全く異なる、というのはおそらく誤りなので、そういう考えは改めないと将来的に科学によって明確に否定されるでしょう。どんなに大きく違うように見ててもその差は連続的なものです。 人間の言語に関する能力のうち大きな部分は生得的なものでしょう。実際、サルに生

    tomad
    tomad 2008/06/06
  • なぜオタクはニコニコ動画を語れないのか 「ネット動画時代の芸術作品」 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    なぜマンガは子供が見るものなのか マンガは子供が見るものと言われてきた。日のようなマンガによる多様な表現が行われるマンガ先進国でも、まだまだそのような考えは根強い。 なぜマンガは子供が見るものなのだろうか。簡単に言えば、実写に比べて画像表現のリアリティに欠けるからだろう。カメラが写すだけでは、光の情報しかない。人が「見る」ということは、「〜として見る」というように能動的に解釈することが必要である。 マンガは必要な情報だけを抜き出し、デフォルメされて書かれる。だから写真を見る場合には一から解釈する必要があるのに対して、マンガはすでに解釈されて提供される。(実際は写真もなにを写すというような解釈が含まれている。) 社会性が未熟な子供に対してマンガは、かわいいものはかわいく、怖いものは怖く、描くことで理解しやすいように噛み砕いて提供してあげる。その中で子供は社会的な解釈の共通基盤を学んでゆく。

  • 「ブログ」はもう終わったのか ハイウエイ論3 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    ハイウェイとデータベース アナログとデジタルの関係について。アナログとは連続的変化である。たとえばA〜Bというアナログの曲線があったとして、それを10分割し、それぞれの区間を平均した直線を並べると、曲線の近似線が現れる。分解能を上げて、100分割、1000分割、1万分割とすると、より曲線に近似する。これがデジタル化である。*1 だからデジタルは非連続的(離散的)である。しかしある段階を越えたときに「疑似連続的」となる。段階とは人がデジタルになめらかな連続性を感じたとき、人の認識能力を越えたときである。アナログの再現には、曲線自体を方程式化する方法がある。その方程式の汎用性が高ければ、異なるアナログの曲線を定数を変えるだけで表すことができる。 それに対して、デジタル化による再現はそのたびごとに、異なる曲線としてデジタル処理する必要がある。このためにデジタル化はさらにメタ-デジタルへ向かう。い

    「ブログ」はもう終わったのか ハイウエイ論3 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
    tomad
    tomad 2008/05/09
  • 脱構築を脱構築する(全体) ラカン的、デリダ的主体論 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    *所々、未完成です。しばらく完成を目指すほどの時間がないので、とりあえずおきました。ご興味のある方はどうぞ。 1 収束(主体)−拡散(動物) 2 否定神学/脱構築 3 マクドナルド化と動物化 4 収束−発散構造論 5 終わりなき連鎖としての否定神学−脱構築 1 収束(主体)−拡散(動物) 1) デリダの構造論と倫理論 たとえば「日人」を考えましょう。日人は、「日人」に対して、「われわれ日人というのは・・・」「日人だから・・・」と、そこに共有された意味があるように語ります。 デリダはこれを形而上学と呼びます。「日人」というエクリチュールは、様々な場面の中で、その都度その都度、使われ、その都度その都度の意味を持つものでしかありません。「日人」というような共有された同じ意味は、そのはじめ(過去)にあるわけではなく、あるようにふるまっているのです。 脱構築とは、このような形而上学に対

    脱構築を脱構築する(全体) ラカン的、デリダ的主体論 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
    tomad
    tomad 2008/02/27
  • 脱構築を脱構築する その1 主体論編 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    デリダの構造論と倫理論 たとえば「日人」を考えましょう。日人は、「日人」に対して、「われわれ日人というのは・・・」「日人だから・・・」と、そこに共有された意味があるように語ります。 デリダはこれを形而上学と呼びます。「日人」というエクリチュールは、様々な場面の中で、その都度その都度、使われ、その都度その都度の意味を持つものでしかありません。「日人」というような共有された同じ意味は、そのはじめ(過去)にあるわけではなく、あるようにふるまっているのです。 脱構築とは、このような形而上学に対して、多様な意味を浮き彫りにすることで、宙づりにする手法です。ここでは、デリダが明らかにしたコミュニケーションの構造と、脱構築という倫理的な手法を分けて考えられると思います。 ヴィトゲンシュタインの経済的コミュニケーション構造 デリダの示したコミュニケーションの構造は、ヴィトゲンシュタインの言語

    脱構築を脱構築する その1 主体論編 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
    tomad
    tomad 2008/02/19
  • なぜ村上春樹はオタクよりもタフなのか その2 オタクよ、美しく咲きそして散れ - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    「なぜ村上春樹はオタクよりもタフなのか」http://d.hatena.ne.jp/pikarrr/20080204に質問をいただいたので、解説してみる。 「物語」とはなにか まず「物語」とはなにか。それは動物と違う「人間」とはなにか、ということです。動物は「世界において自分は多くの一人であるということ、そしてもし自分がいなくなっても明日は変わらずくる」世界を生きています。簡単にいえば、代替可能性です。自分がいなくなっても、誰かが代替するだけのことです。 しかし人間は、代替可能性を受け入れることはできません。たとえば子供を失った親は、違う子供で入れ替えることはできないということです。親にとって子供は唯一の存在です。そしてこの代替不可能性を支えるのが、その人の「物語」です。その人にはその人だけの物語があるのです。「自分の物語では自分が主人公」という歌がありましたが、人間であるということは、「

    なぜ村上春樹はオタクよりもタフなのか その2 オタクよ、美しく咲きそして散れ - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない
    tomad
    tomad 2008/02/06
  • [議論「初音ミク」はオタクを越えられるか その2 - 奴隷こそが慈悲を施さなければならない

    考える名無しさん でも今のところミクでオリジナル曲作ってる人はあまり多く無いよね。まだオタクのおもちゃでしょう。オタク的なわかりやすいヴィジュアルってのはオタクには親しみやすいけど、普通の人にとっては逆に近寄りがたい。 第三の波平 たしかに、オリジナル曲を公表するため、(マジ)というよりも、ネタとして遊ぶと言う方が強いですね。オタクという二次創作性(ネタ)の文化にのっかっている。その意味では、ボクがいっていることは、いまのところ、可能性ということになります。 初音ミクというフィールドで物語をつくっていく物語消費、あるいはそれは東のいうようなデーターベース的な構造をもつかもしれない。オタク的はこのようなフィールドを必要とする、すなわちネタとして、共有性をもつことを特徴とする。 では、このソフトを使って、初音ミクを離れて、一つの女性ヴォーカリストとして、すなわち一時創作(マジ)として作品を提供