こういうのって何かしら自分に対して劣等感を持っているから恐いんだよな。 こうしたら嫌われるだろうなとか自分と接してプラスになることはないなとか思っている。
こういうのって何かしら自分に対して劣等感を持っているから恐いんだよな。 こうしたら嫌われるだろうなとか自分と接してプラスになることはないなとか思っている。
先日開催されたという大規模 OFF 会でやさぐれていたという Y さんを囲んで、小規模 OFF 会をやろうというような会合があったので参加した。おもしろかった。以下とりとめない雑考メモ。途中から途中まで。 Y さんはとてもおもしろく頭がよいのだが、大出力のエンジンに時計の歯車が組み合わさったような生き方をしているので、その才能がどう活きるのかおれにはよくわからないがとにかくすごいぜという世界の住人の一人だ。人間としては不器用な部類に入って、対人関係を基本一対一の並列で処理している。彼は実際に狭い人間関係においては(これはけっこうすごいことだが)それで成立させているように見える。しかし物理的な限界というやつがあるので、たとえば一万人と一対一になることができる人類は居ない(聖徳太子でも十人が限度だ)、にもかかわらず Y さんは万人とでも一対一になろうとするひとだ、という不屈さがすごい。鋭さと脆
「嘘をつくのはいけないこと」 これを心の底から信じているから、生きにくい。 ぶっちゃけ、非コミュもひきこもりもこれだと考える。 小さいころから、「嘘はだめ」と教えこまれ、嘘をついては怒られてきた。 けど、大きくなるにつれて、嘘をつかざるをえない環境になった。 誰かを騙したくて嘘ついてるわけじゃない、正直でいたい。 でも、正直でいると、傷つける。傷つく。 そんな時、嘘をつく。嘘をついちゃいけないと思ってるのに、嘘をつく。 自分に対して、非難の声が内側からわきあがる。 「なんで嘘つくの?嘘はだめだって!」 あー、おれは嘘つきだ。悪い人間だ。 そんな悪い人間は存在しちゃだめなんじゃないの? でも、存在したい。生きていたい。どうしよう? 嘘をつかなくてもいい様に生きてくしかないわ。 他人と関わるのはよそう。 コミュニケーションを取ると、嘘をつかざるをえないから、一人でいよう。 だけどな、一人では生
「空気読み力テスト」について 企業や学校、就活などの場面でますます「空気を読む」ことが求められる中で、どれぐらい空気を読むスキルがあるか、もしくは「空気読めない」かを判定するテストです。
はてなグループの終了日を2020年1月31日(金)に決定しました 以下のエントリの通り、今年末を目処にはてなグループを終了予定である旨をお知らせしておりました。 2019年末を目処に、はてなグループの提供を終了する予定です - はてなグループ日記 このたび、正式に終了日を決定いたしましたので、以下の通りご確認ください。 終了日: 2020年1月31日(金) エクスポート希望申請期限:2020年1月31日(金) 終了日以降は、はてなグループの閲覧および投稿は行えません。日記のエクスポートが必要な方は以下の記事にしたがって手続きをしてください。 はてなグループに投稿された日記データのエクスポートについて - はてなグループ日記 ご利用のみなさまにはご迷惑をおかけいたしますが、どうぞよろしくお願いいたします。 2020-06-25 追記 はてなグループ日記のエクスポートデータは2020年2月28
該当記事にブクマをつけているid:zaikabou氏とid:REV氏にも、「印象批評ではない」見解を聞いてみたい。 http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20070628/p1 ご指名を受けたので反応しておく…が、いきなり『印象批評でない』などと言われて苦笑するわけだが。 まず、これはREV氏も言っているとおり、ブクマしたから賛同とか同意とかそういう意図は毛頭無い。 今回の話題については、Marco11氏周辺から連綿と続く一連の話題をブクマで追っている流れの中で、ブクマしている。『おっ!やっちょるね!』『ほーほー、またやってらっしゃいますな』以上の明確な政治的な意図も意思も無い。ぶっちゃけ、事実関係について考察したり言及したりする意思も無い。 敢えて書くとすれば、Rancelot氏の2007年6月26日の文章は説明不足であり、誤解を生じせしめる可能性があると思う。m
書くにあたって、とりあえず自分の認識やスタンスなどを書いておく。 決まった定義などなく、各人各様に使っている言葉である、というのは十分認識している。 自分が認識しているもの、これから書こうとしているものは、いわゆる非モテ非コミュに関する話題の中で使われるもの。 非モテ非コミュといった話題に理解のある人でも、この言い回しには違和感を覚える、という意見を聞いたことがある。自分としてはその意見に同意しつつ、フレーズとしての「素晴らしい人たち」はあってもよい、と考えている(使い方には注意が必要だが)。 このフレーズを解説するのはかなり難しいが、「各人各様です」だけで済ませてしまうのもあれなので、一応参考として一つの文章と自分のbのタグを置いておく。わからない場合はここからなんとなく類推してもらえば。 http://www.letre.co.jp/~iwaki/shimin.html http://
非コミュ指数とコミュニケーション環境 - socioarc コミュニケーションの得手不得手を測定するツールとして、socioarcさんが「非コミュ指数テスト」を試作してみたところ、多くの被験者から「自分の体感よりも非コミュ指数が低く出た」という指摘があったらしい。自分の体感では判定結果よりももっと非コミュ指数が高く出ても(=コミュニケーション下手と出ても)おかしくない、と思う人が多かったということだ。 どうしてそういう指摘をした被験者が多かったのだろうか? 秋風さん*1が示した一見解は、「コミュニケーション能力の高低にかかわらず、皆がそれぞれにコミュニケーションシーンにおいて精一杯の戦いをしている、だから常勝の例外を除けばみんながコミュニケーションに大変さを感じている」というものだった。これは確かにあると思う。例えば多くの運動競技は、初心者は初心者なりに・中級者は中級者なりに・最上級者は最
例の会津若松の高校生が母親を殺害した事件について、思うところを述べておきたい。 報道によれば、容疑者の少年は、中学校時代までは成績優秀でスポーツにも秀でた模範生であったのだそうだ。それが、生まれた町から離れた高校に進学してから様子が変わった、ということらしい。具体的には「暗い」「友達のいない」「何を考えているのかわからない」「孤立した」生徒に変貌した、と。 なるほど。 このテの事件が起こると、必ず繰り返される定番のストーリーだ。ネオ麦茶以来。いや、もっとずっと昔の、それこそ宇治拾遺の時代から連綿と続く挿話ですね。 報道が事実に反していると言いたいのではない。きっと、取材してみると、事件の周囲にいる人々は異口同音にこのプロットに沿ったお話を繰り返すのであろうし、彼らがウソを言っているわけでもないのだと思う。 ただ、私は、この「少年の孤立」という一つ話を、あんまり過大に評価することは、事件その
id:torly:20070504#1178272922を踏まえて。 梅田望夫氏「人の粗探ししてる暇があったら自分で何かやれ」反応まとめ : ARTIFACT ―人工事実― 梅田氏のありがたいお話に脊髄反射的に反発したくなった人の中には、多分少なからぬ数の「閉じた人生」を生きている人が居たと思う。 閉じた人生というのはいわば、白鳥ではなかった醜いアヒルの子の亜種で、醜い、んだけどその醜い集団の平均よりなお醜いタイプがおおむねこれに当たる。というか俺の人生そのものですお(^ω^)何か大々的にMe使うなってアナウンスされた!! じゃあvistaかXP買って今のPCは*nix系入れて悠悠自適ダブルPCライフしたい!! と思ったが次の瞬間「あ、多分一生このままだわ。新しくvistaかXP買うにしても、今のPCがディスククラッシュした後1年ほど放置でその間携帯とネカフェから細々とはてダだけ更新の日々
対知人コミュ能力・対他人コミュ能力 「Time Will Tell - 非コミュ=エクリチュール強者仮説」について別の解釈をしてみようと思いました。 それは「対知人コミュ能力」と「対他人コミュ能力」に分けることです。 こうやってブログを書いてますけど、 誰が読んでいるのかは把握してないので対他人コミュ能力の管轄になります。 僕の場合、対他人コミュ能力は比較的高いです。 よく知らない人のブログにコメントしたり、 ブックマークしたりするのも対他人コミュ能力の管轄です。 リアルだと困っている人がいて、 どうしました、お手伝いしますよと声を掛けるとか、 お店に行って、店員さん助けてくださいとお願いするのもこっちです。 一方である程度知っている人に向けて記事を書いたり、 ブログにコメントしたり、ブックマークしたり、mixiで足跡をつけるのは 対知人コミュ能力の管轄です。 リアルだと文字通り知人とのコ
「残り1割」が気になる人達 につながると直感的に思ったんだけど、こういう認識の仕方って、ある。 [非コミュ][精神保健]深海からみた他人 @ 深海魚のカタルシス http://d.hatena.ne.jp/Agguy0c/20070421/1177129758 20年前まで、俺以外の人間は全て俺を嫌っていると、心のどこかで思っていた。 10年前まで、俺以外の人間は全て仲が良いと、心のどこかで思っていた。 言語化出来るぐらい意識すると、さすがにおかしいと気付くし、意識としてはそうは思っていなかったけれど、無意識と意識のはざまらへんには、そうした思いがあった。 だから他人の苦痛に鈍感だし、他人はみんな(俺より)幸せで、他人はみんな(俺より)優れていて、他人はみんな(俺より)強いと、そう思っていた。 言語化未満と意識の関係は特にありがち。子供の頃から思い込んでると、気付くタイミングがないとか。そ
かつてこの国では、建前の水準でだか本音の水準でだか分からないけれども、気合いと思い入れで戦争が勝てると思いたがる人が沢山いたんだそうな。思いたがる、というのは語弊があるかもしれない。「気合いと思い入れのある我々は戦争に勝つべきだ、勝たなきゃおかしい。よってこの戦争に全精神力を没入している一億火の玉な我々は、勝つべきなのだ。留保の無い戦果の肯定を!」といった具合に、精神性を理由とした“かくあるべき論”が大手を振ってのし歩いていた、と表現すべきか。勝てるか否かと勝つべきか否かを上手く混同し、勝つための物資を勝ちたいという渇望で補えると信じるならば、神風はきっと吹く。――しかし、連合軍は三流SFの敵役でもなかったし、デカルト神も降臨しなかった。留保の無い戦果の肯定など、三文芝居のご都合主義と何も変わらない。にも関わらず、昭和二十年頃まで「留保の無い戦果の肯定を!」という思いこみから脱することが出
ある種の心理的な状態を描写して、それをひとつの概念として確立したいと思います。とりあえず、私はそれを「冷たい怒り」と名づけました。 伝統的な慣習で惰性的に続いているものに関連して起こることなので、例として社員旅行を使います。 日本では、こういう伝統を守ろうとする人たちは、「社員旅行はよい」と主張しないで「社員旅行に文句をつける奴は悪い奴だ」と主張する傾向があります。権力のある人から、繰り返しそれを受け続けると、社員旅行の好き嫌いと関係なしに、「社員旅行に文句を言えないことに対する怒り」がたまってきます。この怒りはどこに向かうかと言うと、社員旅行が好きな人ではありません。「社員旅行に文句を言うな」と言った人でもありません。「社員旅行に文句を言う人」に向かって吐き出されます。これが「冷たい怒り」です。 「冷たい怒り」を持った人に「社員旅行をやめるように訴えよう」と言うと、「社員旅行はよくない。
はてなグループの終了日を2020年1月31日(金)に決定しました 以下のエントリの通り、今年末を目処にはてなグループを終了予定である旨をお知らせしておりました。 2019年末を目処に、はてなグループの提供を終了する予定です - はてなグループ日記 このたび、正式に終了日を決定いたしましたので、以下の通りご確認ください。 終了日: 2020年1月31日(金) エクスポート希望申請期限:2020年1月31日(金) 終了日以降は、はてなグループの閲覧および投稿は行えません。日記のエクスポートが必要な方は以下の記事にしたがって手続きをしてください。 はてなグループに投稿された日記データのエクスポートについて - はてなグループ日記 ご利用のみなさまにはご迷惑をおかけいたしますが、どうぞよろしくお願いいたします。 2020-06-25 追記 はてなグループ日記のエクスポートデータは2020年2月28
打たれ弱いと不幸なのか?(by「大きな声では言えないけれど」(4/11)) ↑を読みながら、はじめて自分のサイトで「ネットバトルめいたもの」をやったときのことを思い出してしまいました。あれは確か「死刑制度の是非」についての論争だったと思うのですが、自分のサイトの掲示板で、次々と繰り出される相手の「正論」に、「もうやめようよ。疲れたから……」と憔悴しつつも、眠れずに夜中に何度もドキドキしながら掲示板を覗きに行って、反論の書き込みがなければガッカリ、あればグッタリしていたのを今でも覚えています。ネット上とはいえ、他人と闘うというのは、かなり消耗するものではあるんですよね。さらに、その「バトル」は、それなりの数の人が見物しているわけだし。 2007年2月20日、小泉純一郎前首相が自民党幹事長室をたずね、中川幹事長・塩崎官房長官を前に「目先のことに鈍感になれ。鈍感力が大事だ。支持率が上がったり下が
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