ブックマーク / diary.lylyco.com (10)

  • 「理屈っぽい人間」はおしなべて不幸である|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    人が理屈を求めるとき、そこにはたぶん、ふたつのスタートラインがある。 ひとつは、ゼロからのスタート。これは、好奇心や探究心に基づくもので、「なぜ、月は見かけの形を変えるのか?」といった類の疑問に端を発する。もうひとつは、マイナスからのスタート。これは日常を覆う不幸に起因する。「なぜ、友だちができないのか」「なぜ、恋人がいないと辛く感じるのか」「なぜ、お金が儲からないのか」…などなど、人生の不具合は数え上げればキリがない。たとえば百花繚乱の理屈が楽しめる「はてな村」など眺めているとそのことがよく分かる。そして、ぼくたちが日常必要とする「理屈」の大部分は、このマイナススタートの理屈ではないか。 およそ人は、幸せなことや何不自由ないことについて「理屈」をつけようとはしない。少し前に流行った「リア充」なるものがもし実在するなら、彼ら自身は「リア充」なんて言葉を作ってまでそれについて理屈を捏ねたりし

  • 「働きたくない」から「死にたい」までの距離は結構近い|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    「(それ以外にやりたいことがあるから)働きたくない」というのはいい。 問題は「働きたくない(が、他にしたいこととてない)」というケースである。これは要するに「したいこと」はないが「したくないこと」だけはあるという状態を意味する。そこで「働きたくない」という希望が叶ったらどうなるんだろう。まず、最も「したくないこと」が解消されてぽっかり空いた時間に自然と幸福が満ちてきたりはしない。世界はそう都合よくできてはいない。きっと、さしてすることもない休日がそのまま引き伸ばされたような、酷く密度の薄い時間がとろとろと流れ込んでくるだけだろう。そうして、また別の「したくないこと」が浮き彫りになってくる。 いちいち断るのも面倒だけれど、「したいこと」が「日がなごろごろすること」だったり「何もしなくていい時間をぼんやり過ごすこと」だったりするのは別に構わない。それは「(それ以外にやりたいことがあるから)働き

    toriatori
    toriatori 2009/08/04
    「すべきこと」=「死に向かわないこと」
  • ぼくたちはただ「不安」のために働かされ続けるのか|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    なぜ精神や肉体を病んでまで、毎日毎日嫌いな職場で働き続ける人がいるんだろう。 原動力はただ将来への「不安」だろう。いまは、大したものを持っているわけでも、幸福で満ち足りているわけでもない。にもかかわらず、いま手にしているものに執着する。或いは、いまの生活レベルを何故か「最低限」に設定してしまう。収入が減ると「やっていけない」と思い込む。そういう人は、まず、失うことを恐れる。リスクをとるくらいなら「現状維持」の方がマシだと考える。さらに、不景気がその傾向に拍車をかける。リスクばかりが喧伝され、不安は否応なく膨らんでいく。そうして人は「何かを得るため」ではなく「何かを失わないため」に働くようになる。 この「不安」というのは曲者だ。欲望と同じで際限がない。いま年収500万の人は年収500万が「最低限」だと思い、年収3,000万の人は年収3,000万が「最低限」だと思っている。馬鹿馬鹿しい話だけれ

  • 文体を意識して書く愉しみを身につける方法|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    文章で何かを伝えたい。ならば、文体は重要だ…と素人が力説してみる。 文体に無頓着。それは文章の愉しみの大方を放棄しているに等しい。何をどう書くか。或いは、描くか。それは書く愉しみの大きな一面だろう。文体を意識するということは語彙を意識し、語尾を意識し、文の長短を意識し、漢字や仮名の表記を意識することだ。それはつまり、リズムを選ぶことであり、キャラクターを選ぶことであり、ターゲットを選ぶことでもある。であれば、何を伝えたいか、誰に伝えたいかによって、文体は戦略的に選ばれるべきである。何も意識せずに紡がれた文章は、自らの思考のリズムと、自分という茫洋としたキャラクターと、無意識の自分という極めて限定的なターゲットに縛られてしまう。当然、「自分のためだけの文章」にしかなり得ない。 伝えたい内容についてよく知らない人たちに、まずは興味を持ってもらいたい。広く浅くでもいいから、とにかく自分の知識を伝

  • 明日から仕事が苦にならなくなる自己欺瞞術|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    仕事が厭なのは、仕事は厭なものだと思っているからである。 のっけから、当然のことを書いてみた。ところで、あなたはなぜ、いつから仕事が厭になったんだろう。思えば働きだす前から厭だったなんてことはないか。まあ、中には就職前は働くことが楽しみでしかたなかったという人もいるかもしれない。が、そんなのは少数派だろう。ともあれ、何故か勉強が嫌いだったように、何故か最初から仕事が厭だったという人は、少し自分を振り返ってみた方がいい。それは当に「自分の感性」に基づく評価だろうか。どうして、やりもせずに「厭なもの」だと判ったのか。誰かにそう教わったのか。もしそうだとして、なぜそれを信じたのか。 周囲の人間の多くが仕事嫌いだからといって自分まで仕事嫌いだと決めつける必要はない。そんなことでマジョリティたろうとしたところで、もうロリコンやらアニオタやらな段階でマジョリティではないのだから、好き嫌いをわざわざ周

  • 運と才能に恵まれて初めて「孤独」は許される|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    実のところ、他者というのは酷く面倒な存在だ。 できれば他人なんかとは関わらずに生きていきたい。もちろん不可能である。けれども、極力関わりを減らして生きることはできる。ただし、そのためには自身の市場価値を相当に高める必要がある。少なくとも今の時代に先進国で生きるためにはそれが不可欠だ。なにしろ、衣もも住も市場の中にしかない。人と極力関わらないということはつまり「極力自分の市場価値だけで市場から衣住を獲得する」ということだからだ。これは恐ろしく難易度が高い。至高というべきは「ただ生きているだけで市場価値がある」という状態だろう。そんなのは天皇くらいしか思い付かない。 だから、普通の人は他者との関わりの中で市場価値を補い合う。その典型が会社みたいな市場価値を生み出すための組織だろう。組織内での価値の大小はあれ、どんなに偉い重役でもその人個人の市場価値は大したものではない。別の組織の重役として

  • 児童の写真も映像もステージもすべて禁止にすればいい|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    何が「性欲を興奮させ、刺激する」かなんて真面目に話し合うことじゃない。 ・痛いニュース(ノ∀`):【児ポ法】 自民党・葉梨氏「ジャニーズ上半身裸は『1つの思い出』だからOKと考えている。ジャニーズがアウトになるのは民主党案」 それが性欲を興奮させることが目的で存在するものかどうかに関係なく、人は性的に興奮するのだし、しないときはしないに決まっている。まったく性的要素のないドラマの美少女子役を見て抜ける。そんなロリコンはたぶん少なくない。そりゃあ、入浴シーンでもあれば狂喜乱舞するかもしれないけれど、裸ばかりが興奮のポイントではないし意図的な扇情だけが発情を促すわけでもない。まあ、そんなことはきっとみんな分かっている。その意味で、表現規制の議論なんて適当な線引きをしてなんとなく格好を付けるためだけの茶番である。実にコメディタッチで愉しくさえある。 およそ主観でしかあり得ない「性欲を興奮させ、刺

  • 他人の本の読み方にケチをつける人は共感されたいだけ|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    彼らは実は「共感されたいだけ」…という指摘自体は面白い。 ・36. 「共感できない」を読めないあなたは、共感されたいだけ。:日経ビジネスオンライン 確かに、共感だけを基準にコンテンツのできを判断するのはもったいないかもしれない。けれども、「これは共感できないからツマラナイだ」という感想を目にして、「なるほど、あれはツマラナイなのか」と判断する人がいるのだとしたら、それはそう判断する方にも責任があろう。その書評が「比較的広範な文学的知識や比較的公平な主観に基づくもの」か「極めて狭い見識と極めて個人的な感情のみに立脚したもの」かを見分けるのも、また、受け取り手の問題だろうからだ。そして、どんな評をどう参考にしどう受け流すかも、すべては受け手の自由であり、裁量である。 もちろん、ある程度以上の影響力を持つ人が共感だけを理由にある作品をこき下ろし、しかも、それを巧妙に客観的かつ一般的評価たり

  • 愚痴を聞くときに思い出すべき5つの心構え|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    気が付くと愚痴を聞くことに失敗している、というのはよくある話である。 愚痴を聞くのが好きだという人は、たぶん少ない。他人の負の感情に触れることは、大抵の人にとってストレスである。一方的に突き付けられた負のコミュニケーションを、適宜プラスに転換できる人なんてそうはいない。よくいわれることだけれど、そもそも愚痴というのはその内容に関してコミュニケートすることを求めてこぼされるわけではない。つまり、会話ではない。愚痴の内容はまったくそのコミュニケーションの質ではないのである。だから、「内容を聞いてしまう」と大抵失敗する。そこで、愚痴を聞きながら内容を聞かないための心構えをぼくなりに考えてみる。 ----- 01:まず愚痴を愚痴と見分ける ここで躓くケースは思いのほか多いんじゃないかと思う。相手が「仕事相談をしている」と思い込んだり、「人間関係の悩みを話している」と勘違いしたり、「日常の問題に

  • 優しさはデジタル、善意はアナログ|ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

    それは「減る」というより「なくなる」といった方が近いかもしれない。 ・優しさは使うと減るのだろうか?(追記あり) - ビジネスから1000000光年 そして「なくなる」契機は、必ずしも「使う」ことだとも限らない。誰かに対したとき、相手が求めているか否かに関わらず自然と優しい気持になる。そのとき、優しさは「ある」。誰かに対したとき、相手が求めているか否かに関わらず優しい気持ちになれない。そのとき、優しさは「ない」。間はない。ほんの今まであった優しさが誰かのひと言や心境の変化で途端にゼロになる。或いは、ささくれ立っていた心がふとした拍子に優しさで満たされる。そういうものだと思う。残量が少ないから今は少ししか優しくできないとか、そんなのは優しさとは別の理性的行動にすぎない。 優しさは、実は自分だけのものだ。コミュニケートした瞬間、その気持ちは相手のものになる。優しさと受け止められるかどうかは判ら

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