戦後の正木は教員時代からの反天皇制主義の姿勢を明確にし、プラカード事件の弁護を行うなど共和主義の立場から先鋭な言論を展開した。また、八海事件など数多くの冤罪事件の弁護を担当。自身は反共主義者でありながら[7]三鷹事件と菅生事件では共産党員の被告人を弁護するなど、反権力派弁護士として幅広い活動を続けた。 丸正事件では1960年の最高裁判所による有罪確定直後に、判決確定者以外を真犯人であるとして名指しする『告発 犯人は別にいる』(鈴木忠五[注 4]との共著)を出版。それによって翌年に名誉毀損罪で起訴された。正木は「刑事弁護人は、時に自らの職を賭して弁護しなければならないときがある」と主張していたが、同刑事裁判で一審、控訴審とも有罪判決を受け、その上告中の1975年、満79歳で他界した。墓所は亀戸の宝蓮寺。正木は他界した時点で、高裁で有罪判決を受けて上告中の刑事被告人の地位にあった[注 5]。