タグ

ブックマーク / arabic.kharuuf.net (47)

  • わからないものは放っておくしかないし、放ってきたことで自らの今がある

    今朝、トマス・アクィナスについてのラジオ講義を聞きながらピザトーストを齧っていて、岩井克人が「資主義は資主義的価値に対して枠外のものがなければ成り立たない」といった内容を書いていたはずだ、とパートナーに話しかけると、「完全な統一理論を成り立たせようとすると崩壊するという脱構築的なもの」という説明が返ってきたのだけど、その時わたしが考えていたのは哲学と宗教の話で(トマス・アクィナスなのだから)、仏教もイスラームも哲学としての面と宗教としての面(そして政治としての面)があるが、哲学としての面を突き詰めればエリート主義的になり、宗教としての面を突き詰めれば反知性主義的になる。仏教でもイスラームでも(哲学としての)始原に帰れ、という運動はあり、まあ自分にある程度馴染みのあるイスラームで言えばサラフィー的なものだが、(سلف slfとは「先行する」で、単に「先に行ってて」みたいな意味でも「始祖」

    わからないものは放っておくしかないし、放ってきたことで自らの今がある
    toya
    toya 2020/02/12
  • 更生にはやはり値打ちがあるし、復讐はすぐにやらないといけない

    不良が心を入れ替えて頑張る姿を称揚するのはいかがなものか、はじめから真面目にやっている人間の方がずっと偉い、という話は、最初の頃は「確かにもっとも」と思ったものだけれど、もういい加減聞き飽きて「ぐだぐだいつまでもうるせえよ」というか「そんなに褒めて欲しかったのか、可哀想に」という感想しか出てこなくなった。 もちろん、「最初から真面目にやるのが一番」と信じて実践、なおかつ不良の更生称揚についても「それはそれで立派」と言えるデカイ方たちも沢山いらして、この人たちには素直に頭が下がる。 しかし「更生を持ち上げるとは笑止千万」とかわざわざ発言してしまう人は、もうその時点でそこにリビドーが備給されている訳で、「なんであいつばっかり! ボクのことももっと褒めてよ!」というのが透けて見えてしまう。褒めて欲しいなら褒めて欲しいと言えばいいし、注目されたくて馬鹿が川に飛び込むのは自然の摂理だ。飛び込まないで

    更生にはやはり値打ちがあるし、復讐はすぐにやらないといけない
    toya
    toya 2018/05/17
  • 分かち合われない記憶

    おセンチなことはどこに書くのが正解なのかしら。わからないから、試しにここに書いてみよう。 割と言われることかもしれないけれど、記憶というのは共通の記憶であって初めて強化される。 記憶そのものは頭の中にある、という体になっているけれど、不断に想起され記憶し直されることで定着する。定着した記憶はもう物語となってしまって、概念化し、既に生の記憶ではないのだけれど、わたしたちはそういうものを「記憶ということにして」生きている。 だから昔の人たちは、祖先たちの記憶を年に一度の祝祭にして、半ば無理やりにでも忘れないようにしたのだろう。 当の生の記憶が生きる場面というのは驚くほど少ない。 子どもの頃の記憶として思い出されるもののほとんどは、成長の過程で他人視点から聞かされ想起され定着していったものだろう。生の記憶など最初からなく、聞かされた物語を記憶として取り込んでしまったものも多々あるかと思う。 そ

    分かち合われない記憶
    toya
    toya 2018/01/15
  • 少なくとも配達はされますように

    変にわかってしまうといけない、ということは何度も書いているので今更繰り返しませんが1、わかるように書くべきか、というのも微妙なお話です。 加藤典洋先生が「自分にしか書けないことを、誰が読んでもわかるように書く」ということを仰っていて、これはこれで一般的な指針でよく理解できるわけですが、そういう人を安心させることをやってしまって良いのか、良い場合だけでもないだろう、と考えています。 「わかる人にはわかる」というといかにも独りよがり的に響く訳ですが、ある一定の層より外に漏れ出ていかないよう、その外の人が目にしても「なんじゃこりゃ」と読むのをやめて貰えるように書く、ということはあります。 丁度暗号文のような要領ですが、そもそも言語自体暗号文のようなものであって、放っておいても自然に意味が浮かび出てくる、というものではありません。 そういうと言語能力や語学力の話になってしまいそうですが、言語を解す

    少なくとも配達はされますように
  • 罰に無限の力を与えてはいけない

    罰したい、という欲が様々なものを回している。 害されたから報復したい、というのとは異なる。自分自身、または近しい者が何らかの被害を受け、それに対し仕返しをしたり償いを求めたりするのは、復讐というものであって、ここで言う「罰したい」とは違う。 自分自身が直接的に何ら害を受けていないけれど、ある対象が「罰されるべき」ものとして映り、何らかの形で「報い」を与えようとするもの。 いわゆる「バカッター」的な事例で、被害者でもないのによってたかって吊し上げにしようとする心理、著名人の不適切な行い、性的醜聞に群がり「社会的制裁」を加えようとするもの。 「罰したい」がこれらを駆動している。 罰している時、人は自分より大きなものと一体化できる。自分の受けた害に対し報復しているのではないのだから、超自我的な法の水準に立って、あたかも個を越える強大な力を纏ったような気分に酔える。 悪というのは弱いものだ。 一般

    罰に無限の力を与えてはいけない
    toya
    toya 2017/12/01
  • 特に誰も傷つけずに為しうる善は、より一層見えにくい地獄への扉でしかない

    特に誰も傷つけずに為しうる善は、より一層見えにくい地獄への扉でしかない
    toya
    toya 2017/11/26
  • 『良いテロリストのための教科書』外山恒一

    良いテロリストのための教科書 外山恒一の新著『良いテロリストのための教科書』です(以下敬称略)。 当初の案では「愛国者のための左翼入門」だか、そんな感じのタイトルだったらしいですが、版元の意向で外山が街宣でよく使っている「良いテロリスト」というフレーズを入れたようです。 この版元が版元なので、その時点で「絶対買わない」という方もいらっしゃるでしょう。わたし個人はそこまでの思いもないですし、そもそも不買という闘争手段を心底馬鹿にしているので、普通に購入致しました。 版元の問題ということでは、タイトルがどうとか思想性がどうとか以前に、表紙のデザインが酷すぎます。噂では版元の社長さんが撮影された写真のようですが、野由佳子撮影による挿入写真の一枚を表紙採用するだけでもグッと良くなった筈です。尤もその辺は販売戦略?にもよるのでしょうし、わたしのセンスがズレているだけで、意外とこういう方が売れるのか

    『良いテロリストのための教科書』外山恒一
  • ヤケッパチと運命の馬鹿力

    共謀罪でも何でも良いのだけれど、何らかの「安定化」を目指すものというのは要するに現状・現体制の強化を目論むものだ。もちろん悪いとは言わない。その現状・現体制の中には一応わたしたちも含まれていて、なにはともあれ今日までこの世界で生きてきたのだから、現状維持すれば明日明後日あたりまでは生きながらることができるかもしれない。少なくとも、「この世界」にわたしたちは大分慣れているし、年齢を重ねていればより一層、今に至るこの世の中と一体になって生きている。 とはいえ、当のことを言えば、そうした施策で当に特をするのはゲーテッドシティの中に住んでいる人たち、壁の内側にいる人たちだけだ。問題はどの辺に壁があるか、だ。壁がそびえる位置というのはなかなかに微妙なもので、共謀罪と消費税増税でもまた違う。もう一つ重要なことに、今現在壁の外側にいる人たちにも、壁の内側に入るチャンスというのがゼロではない。この「ゼ

    ヤケッパチと運命の馬鹿力
  • すべては運命で、趣味で生きている

    最近、異様なまでの階層意識を露わにし「底辺の人には『こんにちは』もしてはいけません」等と語っている記事が話題になりました。これに対し、あるブログサイトの方が、「努力で階層を這い上がった人は努力しない底辺が許せない」ということを指摘されていました1。努力して成功すると、どうしても生存者バイアスに囚われ、努力しないで苦境にいるままの人のことを許せないようになってしまう、というお話です。 とても興味深い指摘です。おそらくこの背後には、「努力しない人」を叩くことで「努力しているから大丈夫」という安心感を得たい、という防衛的な機制も働いているのでしょう。自分とは違う人びとを括りだして、「自分(たち)は違うから大丈夫」という気持ちを強化したい、という心理は非常に広く見られるものです。外国人嫌悪などとも通底するものがあります。 こうした心理が珍しいものではない、ということは、それなりな合理性があって(無

    すべては運命で、趣味で生きている
    toya
    toya 2016/10/17
  • もしかしたら死なないかもしれない、死ぬかもしれないこと

    いわゆる「ニセ科学」を批判する向きなどによって、マクロビオティックやその他の「健康思想」がやり玉にあげられることがあります。 おそらく「科学的」にこうした批判は間違ってはいないのでしょうし、巷にあふれる「○○は身体に良い」「○○をべるとガンになる」みたいな話の多くは眉唾だろうとわたしも思っています。 そして当に身体に良い、ただただ「健康」を手に入れるため、あるいは病気を治すため、という目的だけで、気休めを越えてこうした怪しげな民間療法に踊らされるのが危ういことであるのは、その通りでしょう。標準医療を拒否せず、それを阻害しない限りにおいて、プラスアルファで個人的に取り組む分には別段問題もないでしょうが。 ただ、ここで言いたいのは、「健康」の科学的是非や、有効性についてではありません。 「を制限する」というそのこと自体です。 「を制限する」行い自体は、別段珍しいものではありません。

    もしかしたら死なないかもしれない、死ぬかもしれないこと
  • 嫌いを正義に言い換えるな、と言ったとしても

    「嫌い」を「正義」に言い換えるな、というお話があります。 要するに自分が嫌い、気にわない、というだけのことなのに、それに色々と屁理屈をつけて、さもそれが正義であるかのように、正しいことであるかのように偽装するな、ということです。それくらいなら素直に「嫌い」といいなさい、ということです。 これは誠に尤もなお話で、その通りかと思います。 ただ、では嫌いなものを嫌いと言ってことが済むのかといえば、もちろんそういうわけではありません。 正義を振りかざしている人びとの中にも、薄々「これは単に気にわないということやろな」と気付いていて、でもただ顔が気にわないとか臭いとか言っても埒があかないので、それなりに理論武装して味方を増やし、気にわないヤツをとっちめてやろう、という人もいるでしょう。 嫌いなら嫌いと言え、というのは尤もなのですが、嫌いとは言えない状況もあれば、ただ嫌いと言うだけではどうにも

    嫌いを正義に言い換えるな、と言ったとしても
    toya
    toya 2016/04/18
  • 中産階級とは誰か、権威・不平等における外国人恐怖(『シャルリとは誰か?』捕捉)

    中産階級とは誰か、権威・不平等における外国人恐怖(『シャルリとは誰か?』捕捉)
  • 『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧』エマニュエル・トッド

    『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧』エマニュエル・トッド
  • 人々を信じることについて

    間違いなく、人が恐れているものというのは一緒ではない。僕に関して言えば、生きることが怖い。生きている間ずっと続くのだから、これは当に怖い。自分が勇敢で強く信仰心があると感じることもあるにはあるが、それでも生きることは怖い。 生きることが怖いのは、自分の持つすべて、自分の愛するすべて、自分のものだと思っているすべてが、ほんの一瞬かもっと短い時間でなくなてしまうかもしれないからだ。その考えに取り付かれると、何も信じられなくなるくらい恐ろしい考えだ。子供たちについて、悪いことが起こるかもしれないと思って、どうやって彼らを見るというのだろう。別に難しことではない、簡単だ。いかなる瞬間にも予告なく変転するかもしれない変わり続ける世界の中で、いかにして信仰を感じられるか、ということだ。 お金が安全を守ってくれると考える人もいる。僕はそれほど金持ちだったことはないが(されどアッラーに讃えあれ)、確かに

    人々を信じることについて
  • 電子書籍『数えられなかった羊』出版

    Amazon Direct Publishingから、『数えられなかった羊』という電子書籍を出版しました。 タイトル通り、このブログの内容をまとめたものです。といっても、選んだ記事を大幅に加筆修正しており、タイトル以外ほとんど丸々書きなおしているものも多々あります。タイトルも違うものもあります。まぁ、それだけ考えずにブログを書いていたということでしょう。 このブログ同様、言語・音楽・信仰・精神分析などが入り乱れたかなり横断的というか、何のなのか説明しにくい変な内容です。ここにある文章を気に入って下さっているような方には、面白い内容になっていると思います。そういう人が地球上で何人くらいいるのか怪しいものですが。 個人出版された電子書籍は100円から300円くらいのものが多いようですが、とりあえず880円にしてみました。廉価な電子書籍は2万字から3万字くらいのリーフレット的なものが多いようで

    電子書籍『数えられなかった羊』出版
    toya
    toya 2015/02/16
  • クルアーンのバンク

    「クルアーンのバンク」と書くと、いわゆる「イスラーム金融」のことかと思われるかもしれませんが、全然違います。 「初代ガンダムは分かりやすかった」なんて嘘っぱち? 当時のアニメ雑誌記事より – Togetterまとめというページのはてなブックマークコメントを眺めていたら、次のようなコメントを見つけました。 t-oblate ぼくはリアルタイムの1st世代じゃないけど、ガンダムに限らずほんとうにちっちゃいころはアニメのストーリーなんかまったく理解してなかったよ。特撮も含めて大抵の場合一番楽しみなのはバンクだった記憶。 「バンク」というのが一体何なのか分からなかったので、検索してみたところ、どうも「バンクシステム」というもののことらしいです。 バンクシステム(bank system、造語)、略してバンクとは、映像作品、中でもアニメや特撮において、特定のシーンの動画、あるいは背景を”バンク”(銀行

    クルアーンのバンク
    toya
    toya 2015/01/31
  • 因果応報と「信じる」こと、割りと真面目なアホが一番幸せ

    人のある行い(大抵はネガティヴな行為)について、「そうした行いをするなら、他人が同じことをあなたに行っても文句は言えない」と言う人がいます。例えば、約束をすぐ破る人がいたとして、「そんなに約束を守らないようなら、他人があなたの約束を破っても文句は言えない」といった具合です。 しかしこれはよく考えると少し奇妙な話で、泥棒だって自分のものを盗まれたら悔しいでしょう。いくら悪いことをしていても、他人から同じ悪いことをされて何も感じない、ということはないでしょうし、文句の一つくらい言うでしょう。それはそれ、これはこれです。 当たり前ですが、悪い行いをしたからといって悪い行いが必ず返ってくる訳ではないし、良い行いをしても良い行いが返ってくるとは限りません。 もちろん、実際上は、結果的に「因果応報」的な現象がある程度成り立つことはあるでしょう。特に狭いコミュニティなどでは、良くも悪くも評判がすぐ共有さ

    因果応報と「信じる」こと、割りと真面目なアホが一番幸せ
    toya
    toya 2015/01/07
    「死んで生き返った人はほとんどいないので、本当のところは分かりません。つまり「信じる」しかないことです。 断絶があるから「信じる」のです」「アホか信仰、どっちか一つは持っておいた方が身のため」
  • 戒律以前のイスラーム、ケチはあかん

    相変わらず、イスラームというと五回の礼拝がどうとか断がどうとか、そういうところからしか見られない上、無遠慮に他人の信仰実践に介入する(これは非常に失礼なこと)人が日には多いです。まぁ、イスラームのみならず信仰というものに縁遠い見捨てられた地の声としては致し方ない気もしますし、非ムスリムの日人ばかりも責められません。というのも、ムスリムが多数派の国に済むボーンムスリムも、イスラームについて語るとなると、こういう教科書的で分かりやすい部分を誇らしてに説いて回ることが多いからです。 自分のよく知らない領分だから、というのもあるでしょうが、日人の生真面目で馬鹿正直な性質が災いしてか、ルール的なものがあると、それは100%ルールなのだ、入ったら守らなければ悪、だから入らない、となるのかもしれません。 いや、確かに「ルール」的なものはあるし、かつ義務であるのも当です。世界中どこのムスリムに聞

    戒律以前のイスラーム、ケチはあかん
    toya
    toya 2014/05/27
  • 日本人へのダウワ

    イスラーム界隈で、時々「日人へのダウワ(≒布教)はいかに行うべきか」というような話題を聞きます。 多分、日人以外の方がこうした問題に興味を持つのではないか、と思うし、またその関心の持ち方も理解できるのですが、「ちょっと問いの立て方が違うんじゃないか」という気もします。 わたしは身近な人を一人「ダウワ」したことになるようです。 別に全然誘ったつもりはないのですが、結果として彼もムスリムになったので、勘定としては「ダウワ」らしく、人に言われて初めて気が付きました1。 その時彼にどんな風に語ったかといえば、彼に親しめる形で、あるいは彼とわたしの関係に即した形で語ったのであって、「日人向け」に話したわけではありません。その辺を歩いている日人を無作為に捕まえてきて同じ話をしても、まず間違いなく相手にされないでしょう。 要するにこんなものは「人と人」の話なのであって、「日人向け」というのはち

    日本人へのダウワ
    toya
    toya 2014/05/27
  • 音楽と信仰

    ちょっと長い前置きがあります。 このブログで書いている文章の多くは、「信仰を内側から見る」試みを表したものです。正確には、「内側」と「外側」を貫通する試み、あるいは「内側」の見方をそのままに「外側」的に表現する試みです。少なくとも自分ではそのように意識しています。宗教や信仰以外についての文章も、「内側から見る」方法を意識して試みるようにしています1。 とりあえず信仰について言うなら、「信仰を外側から見る」言説というのは沢山あります。文化人類学的な視点であるとか、宗教活動を文化の一部であるようにみなしたりして観察することで、学問的なアプローチとも言えます。こうしたものに(娯楽や研究者の雇用創出という)重要性がないとは思いませんし、わたし自身も好きですが、それは信仰そのものとは全然関係がありません。 もちろん、(わたし自身を含めた)大抵の人間は非常に狭い興味の範囲しかもっていないもので、それ以

    音楽と信仰