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2011年11月25日のブックマーク (3件)

  • 横浜・中華街【45度の謎】 ハマナビ★横浜、関内ランチ・グルメ

    やってきました中華街中華街の街は、地図で見ると分かりますが、キレイに他の街より45度だけズレています。だから、中華街は迷うのです。 よくみんな、中華街の45度ずれている町並みは、風水学に則り、中国の方たちが東西南北に整備した、と言うお話を伺いますが、実は違います。 下図は吉田新田が出来る前の地図。昔、中区の平野部はすべて、蒔田公園から放射線状に海でした。当時、材木商を営んでいた吉田さんが、ここを埋め立てて、田畑にしたら町は発展し、もうかるっ! と言う算段を立て、幕府に許可を得たのです。 図の、上の河口部分が、蒔田公園の部分です。吉野町の交差点から上大岡方向に走って、高速のガードがあります。その川から、海側は全部埋め立て地なのです。 埋め立てた後がコレ 上の図と合わせて下さい。そう、大通り公園は昔、川だったんです。だから、「横浜橋」や「阪東橋」と言う地名が今も残っているのです。 吉田新田

  • 厳島神社 (横浜市中区) - Wikipedia

    1859年の開港に伴って1860年に元町へ移転させられる以前の横浜村の人家は、谷戸坂方面から北西へ伸びる洲干島(しゅうかんじま)などと呼ばれた砂州上に位置しており、洲干島の先端(現在の横浜市新市庁舎付近)に鎮座していた鎮守は洲干弁天社と称した。 創建は治承年間で、源頼朝が伊豆国土肥(現・静岡県伊豆市)から勧進したと伝えられる。 足利氏満は般若心経を奉納、太田道灌は社殿を再建、徳川家光は朱印地を与えている。 浜辺の松林で覆われた境内は対岸の神奈川宿台町からの眺望十五景の一つ(「洲干雪」)にも数えられるほどの景勝地であった。 また境内には瓢箪池があり、清水が湧き出たため「清水弁天」とも、また所在地から「横浜弁天」とも呼ばれた。敷地は南は太田町5丁目、北は南仲通5丁目、東は弁天通5丁目、西は海岸で寄州になっており、1万2千坪という広々とした場所であった。今の神奈川県立歴史博物館(横浜正金銀行

    厳島神社 (横浜市中区) - Wikipedia
  • ギリギリまで「まとめに入らない」能力 - Chikirinの日記

    会社で働いていた頃、「この人、すごいっ!」と思う人にたくさん出会いました。 中でも私が一番感心したのは、「超ギリギリのタイミングまで、まとめに入らない人たち」です。 なんでもそうですが、何かを作り上げる時には「作る」+「整える」という二段階の作業が必要です。 最初の「作る」は「中心的な価値」を生み出す作業で、 後半の「整える」は、生み出した価値をお客様に説明しやすく&売りやすくするため、細部や体裁を整え、きれいにパッケージする、みたいな作業です。 この「作る」から「整える」に移行するタイミングを「まとめに入る」と呼びます。 たとえば 10日後に締め切りの企画書があるとしましょう。 このとき、デキる人は最初の 9日間は「まとめ」についていっさい意識せず、思考をどんどん発散させて、考えることに集中します。 一方、6日目くらいからは「まとめ」を意識して「落としどころ」を探りに入る人もいます。これ

    ギリギリまで「まとめに入らない」能力 - Chikirinの日記