毒親に関するtsuyu-kusaのブックマーク (12)

  • 貰えなかった母親の愛を今も求めている - 考えるつゆくさ

    母親から愛を貰えなかったことが40代になっても未だに哀しい。多くの人が母親から貰った愛を心の土台にして、強く明るく生きている。一方、愛を貰えなかった人の心には、その土台がない。だからいつも心は不安定で弱い。 母親からの愛は、その人が生きていく上での自信になり、自己肯定になり、力になり、安心感となる。母親からの愛がないと、自信がなく、自己をいつも否定し、無気力で、不安に苛まれてばかりいる人生になる。私の中の当の私は、毎日、いつでも、うずくまって泣いているし、怖がって震えているし、何もかもが嫌で耳を塞いでいる。 でも、表面の私はそうは見せないために必死になっている。自信、自己肯定、力や安心感が、人並みにあるように見せるために、毎日、いつでも、忙しない。火を絶やさないよう風を送り続けるふいごのよう。普通の人のように見える人生が送りたい。泣いたり震えたり耳を塞いでいる姿なんて誰にも見せたくない。

    貰えなかった母親の愛を今も求めている - 考えるつゆくさ
    tsuyu-kusa
    tsuyu-kusa 2022/06/10
    普通の人のふりをして生きることに疲れた。疲れて、死んでしまいたいとよく思う。
  • エリート家庭の私の家はごみ屋敷だった - 考えるつゆくさ

    私の家はごみ屋敷だった。有名大学に勤めるエリートの父親で、家は閑静な住宅街にあり、娘は私立の中高に通っていると言えば、一見いい家のように見える。 しかし、実際のところは家の中では、母親は家事や育児を放棄し朝から晩までテレビの前に寝っ転がって菓子をいながらテレビを観たり寝たりしており、父親は書斎に引きこもって家族のことなど気にもかけず、兄弟も自室に引きこもって布団をかぶって寝ており、掃除機を何週間もかけられていない家の中はほこりにまみれ、風呂場は黒かびだらけで浴槽には垢がこびりつき、洗面所は汚れた洗濯物の山になり、リビングにもたたまれていない洗濯物が積まれており、台所はコンロもグリルも換気扇も油でどろどろに汚れ、流しには汚れた器が溜め込まれて汚水が貯まり、冷蔵庫の中はかびの生えた品や何も開封されている同じ調味料、トレイからこぼれだした肉片や腐って液体と化した野菜などであふれ返っていた

    エリート家庭の私の家はごみ屋敷だった - 考えるつゆくさ
    tsuyu-kusa
    tsuyu-kusa 2022/05/28
    子供をサポートしない、サポートするつもりが微塵もない親に育てられた子供の自己肯定感が低いのも無理はない。サポートしないというのは、子供を生かせるつもりがないということだ。
  • 娘の容姿を罵倒し、嘲笑する母親 - 考えるつゆくさ

    娘を罵倒し、嘲笑するのが、母にとって日々の喜びだったのだろうと思う。子供だった私の一挙手一投足のみならず、容姿までも罵倒され、嘲笑されてきた。だから私は幼いころから「自分はひどく醜い人間なんだ」と思い込まされていた。 容姿について、母から以下のような罵倒・嘲笑をされてきた。 「あんた、目が大きすぎて、おばけみたいで気持ち悪い」 「手足が長すぎて、骸骨みたいで気持ち悪い」 「体が細すぎて、まるで餓鬼だね」 「顔が細すぎて、首も細すぎて、病人と同じ」 「出っ歯で、河童みたい」 「鼻が低くて、笑われる」 「くまがあって、おかしい」 「髪を結ぶと、ひっつめした女中みたい」 「陰気くさい顔で、どんどんブスになる」 そして娘の鼻に洗濯ばさみを挟んで嘲笑ったり、鼻の下を指で押して「(出っ歯が)引っ込め、引っ込め」と馬鹿にしながら歌ったりしていた。スイミングスクールで水着を着ていた私を見て、「体が細くて、

    娘の容姿を罵倒し、嘲笑する母親 - 考えるつゆくさ
    tsuyu-kusa
    tsuyu-kusa 2022/05/18
    子供だった私の一挙手一投足のみならず、容姿までも罵倒され、嘲笑されてきた。だから私は幼いころから「自分はひどく醜い人間なんだ」と思い込まされていた。
  • 贈りたいと思える母親がいない それは子供のせいではない - 考えるつゆくさ

    雑貨屋に入るともう母の日のコーナーが設えられていて、カーネーションが描かれた綺麗なハンカチが飾られていた。薔薇や紫陽花が描かれているものもあった。パステルカラーのピンクや紫の美しい扇子も置いてあった。 こんなに綺麗で美しい品々を、買って贈りたいという気持ちになった。でも私には買って贈りたいと思えるような母親がいないと思うと、哀しくなって涙が出た。 贈りたいと思える母親がいたなら、どれだけ幸せなことだろう。「あら、いいわね」と喜んでくれて、その顔を見てこちらも嬉しくなれたなら、どれだけ幸せなことなんだろう。 私だって、当は、母の日に贈り物をする娘になりたかった。 いわゆる“いい子”だった私は、子供の頃から、病で倒れる30代半ばまで、事あるごとにせっせと母親に贈り物をしてきた。 しかし彼女の口から放たれるのは「あんたは何もしてくれない!」「あたしは子供に恵まれなかった!」「あんたは親不孝だ

    贈りたいと思える母親がいない それは子供のせいではない - 考えるつゆくさ
    tsuyu-kusa
    tsuyu-kusa 2022/04/08
    母の日に母親に贈り物をしたいと思える人は幸せだ。それはその人が決していい娘や息子だからではない。そして母親に贈り物をしたいと思えない人は、決してその人が悪いわけではない。
  • 教育虐待 中学受験で私は死んだ2 - 考えるつゆくさ

    毎晩深夜2時まで怒鳴られたり叩かれたりしながら勉強させられる日々は、まだ10歳や11歳だった私の心身を次々と蝕んだ。 小学校の登校時間は8時25分なのに、私は8時15分になっても起きることができなかった。肩と背中が凝り固まって重く、立つと目の前がちかちかとして立ち眩みが起きた。今思えば、これは自律神経の乱れによる「起立性調節障害」と呼ばれるものだろう。だから私は遅刻をよくしていた。朝礼で校庭に全校生徒が集まる中、校長先生が朝礼台で話をしている後ろをぼーっとした表情で横切って下駄箱に向かう私のことをクラスメイトがおぼえていて、十数年後に話して聞かせれくれた。そう言えばそうだったかもしれないと、私は哀しくなった。 私の自慢は両目の視力がとても良いことだった。「よくあんな遠くのもの見えるね」「目が大きいから視力がいいのかな」と友達に言われて私は得意だった。しかし眠くなっても目が疲れてもやめさせて

    教育虐待 中学受験で私は死んだ2 - 考えるつゆくさ
  • 教育虐待 中学受験で私は死んだ1 - 考えるつゆくさ

    小4から始まった私の中学受験で、母親はますます狂人と化した。あれはギャンブル中毒と同じだった。彼女は元来、勝ち負けに異様にこだわる。株にのめり込んで、朝から晩まで家事も子育ても何もかも放棄し、新聞とニュースにばかりい入り、貯金をどんどんつぎ込んで、数百万を失った時期もある。 私の通っていた小学校は文教地区にあり、クラスの多くの子供が中学受験をした。毎週日曜に行われる四谷大塚の全国模試には、皆で駅に集合し20名くらいの団体でぞろぞろと連れ立って行っていた。 大人になってから彼らと中学受験の頃のことを話すと、皆「楽しかった」と言う。「お母さんが自分をサポートしてくれるのが心地よかった」「母と子で協力し合っているかんじが嬉しかった」「勉強だけしていれば良かったから楽だった」など。 トラウマになっていたのは皆の中で私だけだったので愕然とした。私はあの時に「自分は一度死んだ」と思っている。 全国模

    教育虐待 中学受験で私は死んだ1 - 考えるつゆくさ
  • 子供なんて死んでもいい 食事を用意しない毒親 - 考えるつゆくさ

    事をまともに用意してくれない母親だった。べることは生きること。子供なんて死んでもいいと思っていたのかもしれない。 小学生の時、私は朝、何もべずに出かけていた。彼女は朝を出さないくせに、家を出ようとする私の背中に「何もべないと貧血になってみんなの前で倒れるよ!」「何もべないとみんなに口が臭いって言われるよ!」などの脅しや嫌味の言葉だけは存分に浴びせかけた。 私は給をできるだけたくさんべた。何度もおかわりした。「痩せの大いだね」とクラスメイトに言われたが、そうせざるをえなかった。家に帰ってもおやつなんて出されたことはないし、夕飯だっていつべられるかもわからなかったからだ。 彼女が毎日、事もまともに用意せずに家で何をしていたかというと、リビングにあるテレビの真ん前に寝転がって、又は立膝をして座り込んで、げらげらと下品に馬鹿笑いしながら、音をたてて緑茶をすすり、お菓子をぼろぼ

    子供なんて死んでもいい 食事を用意しない毒親 - 考えるつゆくさ
  • 「毒親」「親ガチャ」と言うほかない実態がある - 考えるつゆくさ

    毒親」とか「親ガチャ」という言葉に目くじらを立てる人たちがいるが、彼らは新聞を読んだりニュースを見たりしない人たちなのだろうか。親による子供の虐待の報道があれほどなされているのに。それとも、そういうのを読んだり見たりしても、心を動かされることも、何か深い思考をするようなこともできない人たちなんだろうか。 私の毒親である両親のこんなエピソードを読んでも、目くじら人たちはまだ「親」と呼ばれる人たちのほうが正しいと思うんだろうか。以下は二千三千、おそらくもっとある、彼らの醜く愚かしいエピソードの中のひとつです。 -------------- 東日大震災の日、東京郊外の私の町でも残念ながら1名の方が亡くなられた。ちょうど訪れていらした都心の会館の天井崩落によるものだった。夜にはその方のお名前が、住まいである私の町の名前とともに報道されたようだ。 翌日、朝から私の母親が町内会名簿や町内の地図、電

    「毒親」「親ガチャ」と言うほかない実態がある - 考えるつゆくさ
    tsuyu-kusa
    tsuyu-kusa 2022/02/17
    「毒親」とか「親ガチャ」と嘆くほかない子供たちに対して、まだ「わがまま」だとか「甘えてる」だとか「言い訳するな」だとか「もっと不幸な子供は世界中にいる」だとか言うんだろうか。
  • 乳がん治療の記録【41】不安を感じさせる呪い - 考えるつゆくさ

    手術後のシバリング(全身の震え)もおさまってきたものの、心はパニックのままでした。 そうだ、私はもともとメンタルが弱かった・・・。いくつもの管でつながれてベッドに拘束されていることにも不安を感じ始めました。 火事や地震やテロが起きたらどうしよう・・・。殺人鬼が来たらひとたまりもないよね・・・。無理に走ったら傷口はどうなってしまうの・・・。また過呼吸が起こりそう・・・。 巡回にいらした看護師さんに弱々しい声で不安を伝えました。「大丈夫ですよ」と看護師さんはおっしゃりました。少しあきれているようでしたが、確信のある「大丈夫ですよ」に、大丈夫な気がして落ち着いてきました。 もし母親が、幼いころから私に「大丈夫だよ」と言ってくれる人だったら、私はこんなに不安を感じやすい人にはならなかったのではないかとよく思います。「どうなるかわからないよ!」「どうせだめになる!」と醜い顔で脅してばかりの母親だった

    乳がん治療の記録【41】不安を感じさせる呪い - 考えるつゆくさ
    tsuyu-kusa
    tsuyu-kusa 2021/10/13
    母親がなぜ呪いのようにネガティブな言葉ばかりを浴びせかけたのか、大人になった今も、私はずっとずっと考えています。
  • 乳がん治療の記録【23】おっぱい、ごめん - 考えるつゆくさ

    乳房の全摘手術をすることと、再建手術はしないことを決めてから、お風呂の鏡で改めて自分の体を見てみました。 「なかなかいいおっぱいだったんじゃないか?」と馬鹿みたいですが思いました。 私は長らく自分をゲテモノだと思って過ごしてきました。子どものころから母に「おかしな顔だ!目ばかりがぎょろぎょろしてお化けみたい!」「体が痩せてて餓鬼みたい!手足が細長くて骸骨みたいで気持ち悪い!」などと容姿を罵倒されたり嘲笑されたりしてきたからです。 思春期のころには道を歩いたり電車に乗ったりすることがストレスになってしまいました。「ゲテモノがここにおりまして、当にすみません」とまわりの人に対して思っていました。 道がストレス 今、子どものころの写真を見ると「普通にかわいらしいのにな」と思います。友人には容姿を罵倒したり嘲笑したりする人はいませんでした。みんな優しかったので、むしろ「目が大きくていいな」とか「

    乳がん治療の記録【23】おっぱい、ごめん - 考えるつゆくさ
    tsuyu-kusa
    tsuyu-kusa 2021/03/20
    自分をゲテモノだと思っていた
  • 乳がん治療の記録【14】若くて健康な子たち - 考えるつゆくさ

    乳がんと言われた日の数日後、母校の中学・高校の学園祭がありました。今年は生徒たちのダンスや演劇、演奏などの発表をオンラインで見ることができました。同級生たちとLINEで「上手だね」「すごいね」などと言いながら見るのはとても楽しかったです。 若い子たちががんばっている姿を見て、「できることをできるうちにたくさんやってほしいな」と心から思いました。30代や40代になったら病気になることもあるかもしれない。若くて健康な時間は長くはない。だから泣いたり笑ったり、努力したりくじけたりして充実した毎日を過ごしてほしいと思いました。私には子どもはいませんが、もしいたら、そのためにも惜しみないサポートをせずにはいられなくなるだろうと感じました。そして世の中のほとんどの母親は、そう思って子どもを日々サポートしているのだと最近わかってきました。 ひとりひとりにライトが当たって見えた 私の母は、若かったころの私

    乳がん治療の記録【14】若くて健康な子たち - 考えるつゆくさ
    tsuyu-kusa
    tsuyu-kusa 2021/02/12
    若くて健康な時間は長くはない。
  • 乳がん治療の記録【7】乳がんと言われた日 - 考えるつゆくさ

    病院から出ると悲しくなってきて泣きました。歩きながら「何がいけなかったんだろう、あれがいけなかったんだろうか、これのせいだろうか」と原因を考え始めました。 街路樹が黄葉していたのをぼんやりとおぼえています 「自分の体にストレスをかけてしまっていたんだろうか」「きっとそうだろう、私はすぐ自分を追いつめる」「自分が悪いと思って、反省ばかりしているから」「呼吸していることにすら罪悪感を抱いてしまうのはなぜ」「自分に優しくしていない、全然していない」と駅のホームでもうなだれていました。 しかしながら「いずれ乳がんになるかも」とうっすらと思ってはいました。なぜなら母も叔母も祖母も乳がんになっているからです。乳がんが遺伝することはよく聞きます。だからこそこまめに検診に行っていたのですが、いざなってみるとちゃんとショックでした。「検診に行ったばかりに見つかってしまった・・・。友だちに検診をすすめるのはや

    乳がん治療の記録【7】乳がんと言われた日 - 考えるつゆくさ
    tsuyu-kusa
    tsuyu-kusa 2021/01/13
    乳がんと言われた日は落ち込みました
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