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Societyとcomicに関するtukinohaのブックマーク (7)

  • 『ヘタリア』作者の浅さと、読者の責任と - 法華狼の日記

    個人サイトで発表されたWEBマンガから商業出版に至り、ついにアニメ化される『ヘタリア』。世界各国各地域の歴史や特徴を擬人化し、ステロタイプなキャラクター同士のやりとりで楽しませようとする作品だ。 ヘタリア *心のそこからヘタレイタリアをマンセーする* それに対して、韓国から批判が出ていることが報道され、結果としてキッズステーションでのアニメ放映は中止された。 『ヘタリア』はおおむねフィクションであることを断っており、現実から大きく誇張された内容がほとんど。国家や民族の特徴を誇張して笑いを取る手法も一般的だ。歴史上の良い側面だけ、あるいは悪い側面だけを強調した物語も多く、またそうでなければ物語は成り立たせにくい。差別的な表現があるだけで全面否定はしたくない。 一方で、韓国側の批判が表現の自由への攻撃というわけでもない。今のところ、キッズステーションでは放映中止するものの、アニメイトTVでのネ

    『ヘタリア』作者の浅さと、読者の責任と - 法華狼の日記
  • 2008-03-22 - metamorphosis - 『孤独のグルメ』と現代人の生活(その10)――他者のモノローグ、近代人は二度死ぬ

    『孤独のグルメ』について書くのは今回で最後にしたい。そこで、今回は、今まで提出した観点をまとめてみることにしたい。 まず最初に提出したのは、モノローグという観点である。ここでのモノローグは、ダイアローグの不在と言い換えることができるだろう。つまり、『孤独のグルメ』においては、対話が描かれることはほとんどなく、作品は井之頭五郎の独白によって構成される。言い換えれば、そこには物語が根的に欠如しているのである。物語がそこにあるとしても、それは最小のものであり、前の話が後の話に続くということもありえないし、出来事が拡大していくということもない。五郎は、ただ単に、店に入って事をし、独白するだけである。 しかし、だからといって、五郎は、あらゆる人間関係を自分から遠ざけようとしているわけではない。むしろ、彼は、ある点において、他人と非常に重要な関係を取り結んでいる。それが、つまりは、群衆との関係であ

    2008-03-22 - metamorphosis - 『孤独のグルメ』と現代人の生活(その10)――他者のモノローグ、近代人は二度死ぬ
  • 2008-03-18 - metamorphosis - 『孤独のグルメ』と現代人の生活(その9)――目を持つ群衆、量の問題を提起する群衆

    群衆の持っている器官とは、端的に言って、目であるだろう。もちろん、群衆は聞いたりもするし、喋ったりもするだろう。ひとつのところに集まって交通を妨害することもありうるだろうし、映画のワンシーンによく見られるように、人と人とを離れ離れにさせたりすることもあるだろう。あるいは、階段のような場所では、雪崩のように崩れ落ちることによって人を圧死させたりすることもあるだろう。 しかしながら、群衆の機能として、見ることの働きは非常に大きいように思える。アニメでよく見受けられる表現として、登場人物が路上で奇妙な振る舞いをしたときに、小さな子供がその様子をじっと眺めているのを母親が制止する、というものがある。ある人間の振る舞いをじっとまなざす子供と、それを制止する母親。ここに示されているのは、群衆は、目を持っているが、あたかも目を持っていないかのように振る舞わなければならない、ということである。そこにあるの

    2008-03-18 - metamorphosis - 『孤独のグルメ』と現代人の生活(その9)――目を持つ群衆、量の問題を提起する群衆
    tukinoha
    tukinoha 2008/03/18
    群集の中で特別である、とはどういうことだろう?
  • 「勇気を出して一歩踏み出せば世界を変えられる」という少年マンガイデオロギー - HINAGIKU 『らめぇ』ARIMURA『今週か来週に武蔵小杉のラーメン二郎行きませんか?』

    6000日前のことを思い出して懐かしさに泣きそうになった月曜日 今日はちょっとした荷物を会社までもっていかないといけなかったので朝はに送ってもらいました。 頑張れば歩いて持っていくこともできなくはなかったのですが、ちょっと恥ずかしかったので送ってもらえてよかったです。助かりました。そして今週は少し仕事が落ち着い…

    「勇気を出して一歩踏み出せば世界を変えられる」という少年マンガイデオロギー - HINAGIKU 『らめぇ』ARIMURA『今週か来週に武蔵小杉のラーメン二郎行きませんか?』
  • 『孤独のグルメ』と現代人の生活(その6)――風景の変貌、自身の孤独に留まり他者の孤独と連帯するということ - metamorphosis

    ひとりになること、ひとりでいることとは、対象化する視点を持つということである。孤独であるということは、何かから距離を取るということである。第9話において、五郎は、自分の過去から距離を取る。そこにおいて、五郎は、単に、昔のことを思い出しているわけではない。昔自分が歩いた道を歩き直し、昔自分がべたものをべ直しているのである。第9話の最後で、五郎は、他の客たちがトンビの群れを眺めているその光景自体を、少し距離を置いて、眺めている。この距離感が彼の過去に対する距離感と重なるのである(「季節はずれの海とトンビの群れ……か。さえない思い出の脇役にピッタリかもしれん」)。 孤独であるということは、自分自身もそこに属している風景から自分自身を差し引くことである。その場にいるにも関わらず、あたかもその場にいないかのように、自分も含めた風景全体を対象化して眺めるということ。こうした内省的態度、反省的態度が

    『孤独のグルメ』と現代人の生活(その6)――風景の変貌、自身の孤独に留まり他者の孤独と連帯するということ - metamorphosis
  • 『孤独のグルメ』と現代人の生活(その1)――モノローグとしての孤独 - metamorphosis

    この前まで続けていた『ぼくらの』論の中で、僕は、現代人の孤独というテーマを少しだけ提出してみたが、この点をもっと掘り下げてみたいと思ったので、今回からは、久住昌之原作、谷口ジロー作画の『孤独のグルメ』をテキストとして取り上げて、現代人の孤独について語っていきたい。 問題としたいことは現代人の孤独であるが、しかし、この孤独という言葉が何を指すかということがまた問題である。むしろ、『孤独のグルメ』というこのマンガ作品について語っていくことで、孤独という言葉の意味内容とその周辺で問題になることとを浮き彫りにできればいいと思っている。 当たり前のことであるが、現代人の(孤独な)生活を問題にするからと言って、現代人の生活一般を問題にすることはできない。このマンガ作品に描かれているのは、現代人の生活の一面である(とりわけ都市に住む人間が問題になっている)。しかし、この一面が非常に多くのことを語っている

    『孤独のグルメ』と現代人の生活(その1)――モノローグとしての孤独 - metamorphosis
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    ハリイカの焼売と中華炒め ハリイカをよく、見かけるようになりましたよ。生け簀で、泳いでいたものを一杯購入しました 立派な大きな墨袋や肝は冷凍保存して 柔らかな身は季節のお豆、お野菜と合わせて中華の炒めものに。新鮮なにんにくの茎は刻み、香り高く欲そそられますね 下足はミンチにし…

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