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societyとcriticismに関するtukinohaのブックマーク (6)

  • 『らき☆すた』に見る共通前提の崩壊と様々な分断線(その3)――過剰流動性にさらされたオタク的文脈 - metamorphosis

    前回提起した問題、つまり、アニメ『らき☆すた』第1話のべ物に関するエピソードについての問題とは、簡単にまとめると、こういうことである。すなわち、われわれは、ある時には、何かについての価値判断の多様性を認める。あるものに対する評価について、そこでの評価が多様になったり、相反したものになったとしても、そうした違いを相互に認め合うことができる。しかしながら、別の場面においては、何らかの「正しさ」が争われ、あることに対してどう判断するのかということを巡って、例えば、正常/異常、常識/非常識という区別がなされる。 前回は、こうした議論を、「KY」という流行語と関わらせながら、展開していったわけだが、ここでのポイントとは、共通前提の崩壊という仮定にある。意見の相違や価値観の多様性などというものは、一般的に考えれば、極めて当たり前のことであって、ことさらに問題にすべきことではないだろう。しかしながら、

    『らき☆すた』に見る共通前提の崩壊と様々な分断線(その3)――過剰流動性にさらされたオタク的文脈 - metamorphosis
    tukinoha
    tukinoha 2008/05/18
    素晴らしい洞察。
  • アニメにおける「携帯電話」の表現について - tukinoha’s blog

    アニメにおける基的な技法である「モンタージュ」は、しばしば遠く離れた2人をすぐ近くに存在するかのように描きます。『ガンダム』では1つの画面を2つに分割する技法が頻繁に用いられますが、これもモンタージュと同様に、離れた場所にいる2人が同じ場所で向かい合っているように見せかける技法であると言うことができるでしょう。 一方で、『ef - the latter tale.』のデモに見られるように、他者との対比や画面構成によって「近いようで遠い」距離感を表すことも、アニメは得意としています。 では、全然近くない、遠く離れた2人を描くにはどうすれば良いのでしょうか? 背景を変える、言葉を変える、服装を変える……理屈の上ではわかるのですが、どれも心情に訴えかける効果的な表現とは言いづらいような気がします。つまり、アニメというメディアは「近さ」と「微妙な遠さ」を描くことを得意としながらも、心理的あるいは

    アニメにおける「携帯電話」の表現について - tukinoha’s blog
  • 『孤独のグルメ』と現代人の生活(その1)――モノローグとしての孤独 - metamorphosis

    この前まで続けていた『ぼくらの』論の中で、僕は、現代人の孤独というテーマを少しだけ提出してみたが、この点をもっと掘り下げてみたいと思ったので、今回からは、久住昌之原作、谷口ジロー作画の『孤独のグルメ』をテキストとして取り上げて、現代人の孤独について語っていきたい。 問題としたいことは現代人の孤独であるが、しかし、この孤独という言葉が何を指すかということがまた問題である。むしろ、『孤独のグルメ』というこのマンガ作品について語っていくことで、孤独という言葉の意味内容とその周辺で問題になることとを浮き彫りにできればいいと思っている。 当たり前のことであるが、現代人の(孤独な)生活を問題にするからと言って、現代人の生活一般を問題にすることはできない。このマンガ作品に描かれているのは、現代人の生活の一面である(とりわけ都市に住む人間が問題になっている)。しかし、この一面が非常に多くのことを語っている

    『孤独のグルメ』と現代人の生活(その1)――モノローグとしての孤独 - metamorphosis
  • ロリコンファル - エロマンガは使ってみなければ分からない。 -エロ実用主義-

    来年も作りたい!ふきのとう料理を満喫した 2024年春の記録 春は自炊が楽しい季節 1年の中で最も自炊が楽しい季節は春だと思う。スーパーの棚にやわらかな色合いの野菜が並ぶと自然とこころが弾む。 中でもときめくのは山菜だ。早いと2月下旬ごろから並び始めるそれは、タラの芽、ふきのとうと続き、桜の頃にはうるい、ウド、こ…

    ロリコンファル - エロマンガは使ってみなければ分からない。 -エロ実用主義-
  • 404 Blog Not Found:書評 - 戦闘美少女の精神分析

    2007年07月24日02:30 カテゴリ書評/画評/品評Love 書評 - 戦闘美少女の精神分析 文庫化されたので買ってみた。大変な力作。 戦闘美少女の精神分析 斉藤環 しかし、その手法に大変な徒労感を感じる。 書、「戦闘美少女の精神分析」は、オタク精神医、斉藤環が、サイボーグ009の003から、新世紀エヴァンゲリオンの綾波やアスカに至るまで、日発のフィクションを席巻している戦闘美少女たちを精神分析したもの。書は2000年4月に刊行されたので、21世紀の戦闘美少女に対する考察はないが、今読んでも、というより今読んでこそ、「戦闘美少女」という目のつけどころのすごさがわかる一冊。 だからこそ、徒労感も強い。なぜなら、戦闘美少女のことを知りたかったら、戦闘美少女という「将」を正面から射るよりも、その「馬」である彼女たちの「よりしろ」、すなわちオタクたちを射た方が手っ取り早いからだ。そして

    404 Blog Not Found:書評 - 戦闘美少女の精神分析
    tukinoha
    tukinoha 2007/07/24
    暴力の非対称性。
  • 魔法の名前はゲームにとって「本質」的か - 萌え理論ブログ

    吹風日記 - 「ぱふぱふ」はなぜ消えたのか、聞こえない音、エロい日のドラクエ お前ら全員、死んでしまえ。 これはひどい。無意味に差別的である。 日の言語は特殊か だいたいエロの質は視覚ではなく、聴覚ですよ。 無根拠に断定するが、これは当だろうか。エロマンガやエロ同人誌には音がない。ライトノベルにも音がないし、フィギュアやコスプレにも音が(目的では)ない。声のないエロゲギャルゲの方が画像のないエロゲギャルゲよりも圧倒的に多い。この事情は例えば視覚の方が受け取る情報量が多いからかもしれない。もちろんだからといって、それをもってただちに聴覚より質的とするわけでもない。 例えばマンガのフキダシの台詞は来は音声言語だとか、「ドカーン」「ゴゴゴ」などと擬音が使われていることをもってして、音声が質的だというような論理展開はありうる。だが、フキダシの形が四角ければナレーションであるというよう

    魔法の名前はゲームにとって「本質」的か - 萌え理論ブログ
    tukinoha
    tukinoha 2006/11/11
    「ベホイミ」の「べ」は「ベホイミ」の「べ」ということでは。
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