2023年5月27日のブックマーク (5件)

  • 「心理的安全性」と「居心地の良さ」のちがい - Qiita

    最近、IT業界における「心理的安全性」の重要さは広く知られるものとなってきました。 一方で、心理的安全性が誤解・誤用されるケースも見聞きすることもあります。 よくあるパターンは、「心理的安全性」とは「居心地の良さ」である、という認識でしょうか。なんとなく似た意味にも感じますが、実際はまったく別物です。 しかし上記の違いを説明するのはちょっと大変なため、『心理的安全性 最強の教科書』を頼りながら要点を押さえてみようと思います。 心理的安全性は「ゴール」ではない まず心理的安全性とはなぜ必要なのでしょうか。書は次のように説明しています。 もうひとつ、ありがちな誤解があります。それは職場の心理的安全性を高めることを「ゴール」だと考えてしまうことです。もちろんマネジャーにとって、職場やチームの心理的安全性を高めることは大事ですが、心理的安全性はあくまで組織の生産性を高めるための手段のひとつであり

    「心理的安全性」と「居心地の良さ」のちがい - Qiita
    turanukimaru
    turanukimaru 2023/05/27
    お前らが恐れてるのは意見の対立ではなく対決だ。「お前は間違ってる!」「俺が正しい!」と。「俺はこうしたい!」をお互いに出すのが対立だ。こっちなら喧嘩にならず、もっといい方法は有るか?の話になる。
  • 「世界史」の世界史(学術俯瞰講義)

    コーディネータ:羽田 正 ナビゲータ:後藤 春美 皆さんの多くは、高等学校で「世界史」を学習したはずです。大学入試の科目として「世界史」を選択した人も多いでしょう。ですから、ちょうど数学の定理や物理の法則のように、高校生が世界中で同じ世界史を学んでいるのだと信じているのではないでしょうか。しかし、実はそうではありません。 世界史という名前の科目は、日中国など東アジア諸国に特徴的にみられ、欧米や中東などでは単に「歴史」と呼ばれる科目しかありません。また、大筋は同じだとしても、国によって、教科書の内容は微妙に異なっています。世界史は、決して一つではないのです。なぜでしょう。 世界史の理解は、自分たちの生きる世界をどう認識するかということ、すなわち世界観と深くかかわっているからです。現代世界でも、人々の世界観は同じではありません。まして、過去においては、地域や時代によって様々な世界観があり、

    「世界史」の世界史(学術俯瞰講義)
  • なぜ生物は増え、人は悩むのか──『増えるものたちの生物学』と『風の谷のナウシカ』

    「人はなぜ、生きているのか?」 自分という存在を自覚するようになった頃に、一度は考えたことのある疑問ではないかと思う。 生きることには楽しいこと・気持ちの良いこともあるが、苦しいこと・辛いこともたくさんある。 最近ときどき耳にする「反出生主義」になぞらえて考えるなら、かならず苦しみが伴うのに私たちが生まれてくるのは良くないことで、生まれてこないほうがいいし、子孫など残さないほうがいい……となるかもしれない。 そして人間だけが苦しいわけでない。動物も昆虫も、生きとし生けるものが生きる限り、もがき、苦しむ。 欲しがっても得られない苦しみ、命を脅かされる苦しみ、そして老化や病気による苦しみや死に至る苦しみ。苦を悪とみなし、苦を回避することを善とみなす限りにおいて、人類絶滅や生物根絶をうたう人々の言い分には確かに一貫性がある。 私も私なりに「人はなぜ、生きているのか」について考え続けてきたが、今も

    なぜ生物は増え、人は悩むのか──『増えるものたちの生物学』と『風の谷のナウシカ』
    turanukimaru
    turanukimaru 2023/05/27
    仏教の苦しみの滅却は苦痛の否定ではないよ。肉体的な苦痛も死の恐怖も意外と大したことないのでは、と悟れば悩む必要のないものに悩むことは無くなる。それだけの話。生や苦痛を気にするのは執着で悟りとは逆方向。
  • 真面目そうに見えるらしい

    真面目そうに見えて得したことないし、 真面目そうという印象を払拭する方法はないか?

    真面目そうに見えるらしい
    turanukimaru
    turanukimaru 2023/05/27
    太ってアロハに短パン、つまり小錦みたいになれば真面目そうには見えないぞ。だらしない人間に見えるか優しそうな人間に見えるかは増田次第だ。
  • 『こころ』も『羅生門』も不要なのか…高校国語で"文学"がどんどん減っていくことの大きすぎる弊害 文学は「非実用的」でも「不要不急」でもなく仕事のできる人を育てる

    高校現代文が「文学国語」と「論理国語」に分かれる 文学というと「非実用的」「不要不急」というイメージを持ってしまう方が少なくないようです。これはとても残念な誤解です。 その誤解が、いま国語教育の現場でも広がっています。高校の現代文の領域では、契約書や自治体の広報といった実用文の読解を中心とする「論理国語」と、これまでのような小説などを中心とした「文学国語」に分かれ、大学入試や単位システムの問題から、ほとんどの生徒が「文学国語」を取らず、「論理国語」のみを学ぶことになるのではないか、と危惧されています。 これは文部科学省が2018年に告示し、2022年春にスタートした新学習指導要領にもとづいた政策です。 こうした選択制がはらむ危険性はきわめて高いと考えます。というのも、選択しなくて済むなら生徒は自分の苦手な科目は勉強しなくなってしまうものだからです。論理国語のみを選択すれば文学国語は弱くなり

    『こころ』も『羅生門』も不要なのか…高校国語で"文学"がどんどん減っていくことの大きすぎる弊害 文学は「非実用的」でも「不要不急」でもなく仕事のできる人を育てる
    turanukimaru
    turanukimaru 2023/05/27
    数学も物理も人文学も仕事に直結する必要はないと思うのだがネット上の人文学者は人の心が解りすぎたか「哲学者はこれが真理だ!ひかえおろう!と言うのが仕事!」とか本気で言う連中ばかりで人文学は無いほうがマシ