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ブックマーク / www.rekihaku.ac.jp (4)

  • 日本建築は特異なのか -東アジアの宮殿・寺院・住宅-|これまでの企画展示|企画展示|展示のご案内|国立歴史民俗博物館

    趣旨 神社・寺院、御殿・住宅、城郭・民家・茶室などによる日の建築文化は、縄文・弥生にはじまり、古代・中世・近世と日列島内で受け継がれてきたもので、日独自であり、日固有のものであると考えられています。しかし果たして当にそうなのでしょうか?東アジアに視野を広げてみると、中国韓国の建築と日建築はよく似た部分も多く、日建築とは何が独自で何が固有のものなのか案外わからなくなってしまいます。このような観点にたって、あえて「特異」という言葉を使って日の建築文化を考えようというのがこの企画展示の試みです。中国建築、韓国建築と比較して日建築の何が独自なのかをまず考え、そこから東アジア建築の共通性、普遍性という問題を考えようとしています。 この場合の建築文化は、王権の象徴としての宮殿、宗教の拠点となる寺院などの宗教施設、そして人間の活動の場である住宅で代表させることができるものです。また、

  • 「桶狭間の戦い」について

    BS歴史NHKの番組「BS歴史館」第50回「信長27歳 桶狭間に立つ」(2012年9月20日初回放送)に出させていただきました。桶狭間を専門に研究してきたわけではないので、むしろ信長の位置づけについて、といった趣旨で参加したのですが※、合戦自体についても、いろいろと考えさせられました。討論番組の性格上、言い尽くせなかったことも多く、私見を少しまとめておきたいと思います。 否定された通説 永禄3年(1560)5月19日(グレゴリオ暦だと6月22日)に起こった桶狭間の戦いは、かつては流布していた戦記物、小瀬甫庵の『信長記』などによって、上洛を目指して尾張に侵入した今川義元を、織田信長が奇襲によって倒した戦争、と考えられていました。しかし今日では、より信頼が置ける、信長の側近くに仕えた太田牛一『信長公記』などの史料の見直しによって、こうした見方は否定されています(藤正行『信長の戦争』講談社

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    tweakk 2014/06/24
    「当時の日本は社会的に成熟を深め、経済的にも新興の地方経済を元にV字回復を遂げていた時代で、戦争などしなくともおのずと社会の統合は進んでいた、ということを『永禄六年北国下り遣足帳』は物語っています」
  • 弥生時代の開始年代

    tweakk
    tweakk 2013/03/26
    「さかのぼり日本史」の最終回見てた。水田稲作が紀元前10世紀に伝わっていたかもしれないという国立歴史民俗博物館の2003年の発表って、これだな。
  • 弥生時代の開始年代について

    概要 九州北部の弥生時代早期から弥生時代前期(年表参照)にかけての土器(夜臼Ⅱ式土器・板付Ⅰ式土器)に付着していた炭化物などの年代を、AMS法による炭素14年代測定法によって計測したところ、紀元前約900〜800年ごろに集中する年代となった。 考古学的に、同時期と考えられている遺跡の水田跡に付属する水路に打ち込まれていた木杭2点の年代もほぼ同じ年代を示した。 これらの年代の整合性を確かめるために、前後する時期の試料、同時期の韓国や東北地方の試料の年代を測定した結果、以下のことがわかった。 1) 韓国の、この時代に併行するとされる突帯文土器期と松菊里期の年代について整合する年代が得られた。 2) 考古学的に、この時期と前後する土器の型式をもつ土器の試料の年代値と考古学的編年の間にはよい相関が得られた。 3) 遺跡における遺物の共伴から、同時代とされる東北地方の縄文晩期の土器の年代と

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