昭和十五年(1940)の国際オリンピック大会は様々な政治的思惑が絡んで東京に決定したが、開催直前になって返上を余儀なくされた。招致活動の開始から返上に至る過程を丁寧に描いた一冊。 1940年オリンピック返上の理由として「日中戦争の影響」と一言で片付けられることが多いが、本書を読むと、むしろ、日本側の準備不足と責任能力の欠如こそが大きな要因であったことがわかる。そのドタバタっぷりは、某アニメの台詞ではないが「なんですか、これ」って言いたくなるレベルだ。 オリンピックには普遍主義と国家主義という二つの顔がある。人種・民族・国家を越えて選手一人一人が参加することに象徴される平等と差別排除の追求、主体となる選手の身体性と結びついて増幅される国家の威信と同胞意識。オリンピックの登場以来、この二つは常に表裏一体であった。1940年の東京オリンピックへ至る過程もこの双面から自由ではない。 そもそもの始ま
冷たい風が吹き抜けるグラウンド。楕円(だえん)のボールを抱えながら縦横に走り抜ける生徒の声が響く。奈良県立奈良工業高校(奈良市)ラグビー部の練習が始まった。だが監督の姿がみえない。 「担任の生徒に問題が起きましてね」。ラグビー部監督の山本清吾(しんご)教諭(48)は、同僚からの連絡でひっきりなしに鳴る携帯電話を手に赤いジャージー姿で走り回っていた。 武骨な顔つきにひげ。かつては、ドラマ「スクール・ウオーズ」のモデルとして知られる京都市立伏見工業高校で、教師だった元ラグビー日本代表の山口良治氏(現環太平洋大学学監)のもとラグビーに打ち込み、全国高校選抜にも選ばれたラガーマンだ。 山本教諭は現在、同校の体育教師だ。定時制の教員から数えると23年間、同校の生徒を見守り続けている。それでも山本教諭はいう。「子供たちには教えられることばかりです」 「ラグビーやってなかったら、どうなってたかな。気が付
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