少年時代に名字はなく、針売りなど行商人をしながら放浪し、17歳の時、織田信長の下男として取り立てられる。 のちに天性の「人たらし」で人の心を掌握する天才と評される秀吉は、信長との出会いが、その運命を決定づけた。 越前の朝倉義景を織田信長が攻撃した際、同盟関係にあった浅井長政が信長を裏切ると、織田軍は浅井軍・朝倉軍に挟まれ窮地に陥った。 この時、秀吉と徳川家康の両軍が信長軍を援護。この撤退戦「金ケ崎の退き口」で秀吉は頭角を現わす。 信長が「本能寺の変」で明智光秀に倒された時、秀吉は毛利輝元の勢力下にあった備中・高松城の水攻めの最中だった。 だが、信長の死を秘して毛利に停戦を持ち込むと、京に向けて10日間で200キロ引き返す。この「中国大返し」と呼ばれた軍勢の大移動が功を奏し、「山崎の戦い」で秀吉は光秀を討った。 信長の後継者争いが勃発すると、秀吉は信長の孫で2歳の三法師を立てて、その後見人と
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