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ブックマーク / pledgecrew.hatenadiary.org (2)

  • 「社会的差別」とはなにか - 遠方からの手紙(別館)

    こことの関連で、「社会的差別」という問題について、ちょっと書きたくなったので書いてみる。結論をあらかじめ述べておくと、種々の「社会的差別」と、たんなる個人的な不利益一般の問題とは、まったく別の問題だということだ。そのへんをごっちゃにしてしまうと、あれも差別、これも差別、ということになって、話がどんどん拡散してしまうよと。 たとえば、先生が特定の生徒をひいきしたり、スケベな社長さんがお気に入りの女性社員を優遇するというようなことは、世間では珍しくもない。それは、たしかに他の生徒や社員からすれば不当ではある。しかし、その理由が、相手が「ゴマすり上手」とか「言うことをよくきく」、「容姿がいい」などといった、その先生や社長さんの個人的な好みや利害から発する限り、それは「社会的差別」の問題ではない(厳密に言えば、そこでもなんらかの「社会的価値観」が働いているということはなくはないが)。 「社会的差別

    「社会的差別」とはなにか - 遠方からの手紙(別館)
    umeten
    umeten 2009/06/04
    区別が差別を生む。区別することが差別の温床。
  • 個人は抽象的カテゴリの単なるサンプルではない - 遠方からの手紙(別館)

    生きている具体的な個人というものは、どんな場合にもある一つのカテゴリーだけにすっぽり収まるものではない。たとえば、川田龍平さんがエイズ患者であるとしても、彼のすべてがそのことに還元されるわけではないし、乙武さんが障害者だとしても彼の存在のすべてがそのことだけで説明されるわけでもない。 だからこそ、彼らがエイズ患者であり、あるいは障害者であったとしても、それとは別に、個人としての彼らを批判すること自体にはなんの問題もない(その内容や方法の是非はともかくとして)。 同様に、ある人が現に「派遣社員」であって、そのことが今の彼にとって非常に重い意味を持っているのだとしても、その人の存在は、そういうカテゴリーだけに収まるものではないだろう。もし、彼が自分で自分をそのように考え、そのように主張しているのだとすれば、それこそがおかしな話である。なぜなら、それは、自分は「派遣社員」であるということを除いて

    個人は抽象的カテゴリの単なるサンプルではない - 遠方からの手紙(別館)
    umeten
    umeten 2009/05/21
    具体的な人間の存在をそのようなただ一つの抽象的カテゴリだけに押し込めてしまうことは、むしろ差別を固定化することにつながる。なぜなら、差別からの解放とはそのようなカテゴリそのものの無化を目指すものだから
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