内山永久寺の破壊と文化財の流失 前回、前々回の「歴史ノート」で興福寺の廃仏毀釈について書いたが、冒頭で東京美術学校(現東京芸術大学)の第五代校長を勤めた正木直彦(1862~1940)の講話などを抄録した『十三松堂閑話録』の「廃仏毀釈、西洋崇拝、国粋保存と其推移」という講話の一部を紹介した。正木はその講話の中で興福寺の廃仏毀釈について述べてたあと、内山永久寺の廃仏毀釈に言及している。この寺は永久年間(1113~1118年)に鳥羽天皇の勅願により興福寺大乗院第二世頼光が創建し、後に石上神宮(いそのかみじんぐう)の神宮寺として栄え、「太平記」には後醍醐天皇が一時この寺に身を隠したと伝えられていた。また大和国では東大寺・興福寺・法隆寺に次ぐ待遇を受けていて、その規模の大きさと伽藍の壮麗さから、江戸時代には「西の日光」とも呼ばれていた。そんな由緒ある大寺院が、明治初期の廃仏毀釈によって完全に破壊され
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