静岡県周智郡熊切村(現・浜松市天竜区)出身[1]。終戦前に巡査を拝命し、1948年(昭和23年)頃に二俣警察署へ赴任した[2]。長女によると、警察官時代には焼け野原になった浜松から宿無しの戦災孤児を何人も連れ帰ってきては家族の食料を削って何年も育て、製材所など山仕事を世話してあげる人物であったと回顧している[3]。 1950年1月6日に発生した二俣事件では、国家地方警察静岡県本部二俣警察署の刑事として捜査に当たっていた。事件から40日が経過し未だ犯人を特定できない中、山崎が担当したある少年のアリバイが無かったことから捜査の目が少年に向けられた[4]。しかし、改めて山崎は少年のアリバイを調べたところ、その少年にはアリバイが存在したため、少年にアリバイがあったことを山崎は捜査主任をしていた紅林麻雄警部補へ報告した[4]。 しかし、捜査会議で紅林は「永年の第六感では犯人に間違いない」と宣言し、少