今日追加されたGoogle Mapsで、なんと知人=id:reikonの写真を発見しました。 たまたまよく行くとある場所を表示させていたら、そっくりの人が写っていたので本人に聞いてみたところ、車を止めた場所、服装、手荷物などがぴったり、とのことで本人に間違いなさそうです。 ストリートビューで自分の知人を見つけた人はまだ少ないんじゃないでしょうか。驚きました。
久しぶり日本に戻りました。今回は2月から4ヶ月ぶりの来日なのですが、ようやく少しアメリカの環境にも慣れてきたせいか、これまでの来日とはまた違う感想を持ちました。今回は電車に乗ったり街を歩きながら東京の街って温泉旅館みたいだなあと思いました。入り口で靴を脱いで浴衣で歩き回っているような温泉旅館的なゆるさというか安心感というかを感じました。狭い街を人がたくさんぶらぶら歩いている感じとか、人の表情にアメリカ人が持っているような野性的な緊迫感みたいなのが全く無くて、安心しきっているというか、ゆったりしているというか、そういう感じがします(やけに湿度が高くて暑いという要因もあったのかも知れませんが)。電車の中でぐうぐう寝ちゃっている人とか多いし。アメリカはなんとなくいつも「自然」とか「生と死」というのを感じるので、そういう環境に対する緊迫感があるのと、あとはやはり主張の強い人々が大勢いるので自分も言
なんか最近「スルー力」という言葉が流行っていて驚いているのですが、「なんでも華麗にスルーできる人は偉い」というような価値観だけが蔓延するのもどうかなあ、と思っています。 確かにどうでも良いような意見をうじうじと考え続けているのは勿体無くて、自分が価値を出せる分野に自分の力を集中させるべきだ、というケースはよくあって、例えば自分が好きな音楽のアーティストが、作曲なんて決してできないような音楽好きの人から「音楽性が低い」とかなんとか批判を受けたとしても、うじうじ悩むよりも次の曲を作ってくれ、と思うわけですが、でもそのアーティストがまだ駆け出しの若いアーティストだったとして、多くの人が思っている部分を改善しさえすれば凄い大物アーティストになる、というような場合に、そのアーティストが批判をスルーするのは致命的なわけで、スルーせずに受け入れられるかどうかがアーティスト生命を左右するような場合だってあ
人と議論をしているとよく「何が正しいのか」という事が問題になります。「その意見は正しいね」とか「君の言っていることは間違っている」みたいな話です。 議論というのは基本的に最も「正しいらしい」と思われる結論を導き、それに全員が同意することを目的にするものだと思っているのですが、議論をしているとたまにこの「正しさ」についての認識が違うな、と感じることがあります。 基本的に僕は、「正しさ」には個人的なレベルと全体的なレベルの2種類があって、個人レベルでは「人々の意見は全て正しい」のだと思っています。 例えば僕が「この部屋が暑い」と言えば、例え気温が5度しかなくてもそれは「正しい」わけです。「5度の部屋が暑いなんて間違っている」と言われても、暑いと感じた人にとっては「暑い」事は事実でしょう。 もし僕が「この部屋の温度は10度を超えている」と言えば、それは正しくはありませんが、こうやって科学的に証拠
言いたいことがあるのに我慢したり、他の人が代わりに言ってくれないかなあと期待したり、どこかに似たような記述を見つけてそれを引用して代わりに発言させたりとか、回りくどくてやだな。本当は何が言いたいのかよく分からないし。 「もしかしてこういうことが言いたいの?」と詮索させるよりも、直接伝えた方がずっと正確だよね。
今日で3月も終わり。明日からはてなのスタッフも増えて、事務所も拡張ということで、また一つ区切りだなあーと感じます。 はてなでは、色々な機能追加や変更など、開発のタスクをタスクカードに書いて進行管理をしています。タスクカードといってもただのコピー用紙の裏紙で、進行管理といっても、ただの段ボール箱を区切って紙切れを入れているだけです。 その名は「あしか」。 そんな進行管理ですが、いい区切りだと思ってこれまでに実装を行ったタスクを見てみると、随分とたまりました。(写真の左奥の仕切りが「終わった」の箱です) ちなみに、区切りは4つあって 終わった すぐやる そのうちやる ペンディング に分かれています。ペンディングに入ったアイデアやプランは、なかなか手をつけることができませんが、大きなテーマや楽しいアイデアもいっぱいです。 人も少しずつ増えて、さらにスピードを上げてやるべきことをどんどんできるよう
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