そう、本当はいらないはずなんだ 「感動した」という言葉すらいらない。 感動は見た人間の中にあれば良い。 でも、それでも人間はその衝激を誰かに伝えたいと思う。 共有したいと思う。 表現したいと思う。 そういう衝動を言葉で表現して論理で説明すること、 それが段取り。 衝動への言い訳。 「こうこうこういう理由で俺は感動したんだ」 「こうこうこういう理由でこの作品には感動させる力がある」 多分、本質は衝激そのもの。 でも他人に伝えるには段取りを経なければならない。 段取りは手段であって目的ではないはずなんだ、多分。