2009年2月13日のブックマーク (16件)

  • 松前重義 - Wikipedia

    松前 重義(まつまえ しげよし、1901年(明治34年)10月24日 - 1991年(平成3年)8月25日)は、日の逓信官僚、政治家、工学者、教育者。学位は工学博士(東北帝国大学・1937年)。熊県出身。東海大学創立者。内村鑑三を師とするクリスチャン[1]。 戦前は逓信官僚として新体制運動に加わり大政翼賛会総務部長、戦後は逓信院総裁(逓信大臣・郵政大臣相当)、社会党右派の衆議院議員を務め、ソ連との友好親善に尽力した。静岡市名誉市民[2]。 熊県上益城郡嘉島町生まれ。合併前の大島村で村長を務めた松前集義が父である。祖父松前熊太郎、曾祖父松前叶は熊藩士。小学5年生のとき熊市に移った際、故郷の農村と違って夕方になると町中に一斉に電灯がともるのを見て美しさに驚き、これがのちに電気を専攻するきっかけとなった[3]。 旧制熊県立熊中学校から熊高等工業学校を経て、東北帝国大学工学部電気工

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    urbansea 2009/02/13
    東海大創立者 逓信省(高等技官)-戦後、右派社会党で衆議院議員 親ソ議員(日本とソ連の外交問題の下交渉では必ず名前が出る人物) 世界連邦建設同盟(現、世界連邦運動協会)会長
  • 勲一等旭日大綬章 - Wikipedia

    勲一等旭日大綬章(くんいっとう きょくじつだいじゅしょう)は、日の勲章の一つ。 1875年(明治8年)4月10日、勲章制定ノ件(明治8年太政官布告第54号)に基づいて制定された。2003年(平成15年)11月3日に漢数字による勲等表示が廃止され、同日以後に授与されるものは旭日大綬章と改められた。 2002年(平成14年)2月、中谷元防衛庁長官(左)から勲一等旭日大綬章を伝達されるデニス・C・ブレアアメリカ太平洋軍海軍大将(右)。

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    urbansea 2009/02/13
    三権の長や松下幸之助・本田宗一郎・稲山嘉寛・永野重雄ら名だたる顔ぶれが、なぜか96年の坂本三十次・河本敏夫を皮切りに上原康助・野中広務・渡部恒三と小者が受けている
  • 蜷川虎三 - Wikipedia

    東京府東京市深川区深川入船町(現在の東京都江東区木場一丁目)の材木商の家に生まれた。旧制東京府立第三中学(現:東京都立両国高等学校・附属中学校、同学年に正木ひろし(弁護士)がおり、英語教諭だった北昤吉(北一輝の弟)の授業を受ける[4])、農商務省水産講習所(現:東京海洋大学)卒業[5]後、京都帝国大学経済学部に入学、1923年に卒業[6]。1927年、同助教授となる。当初はマルクス経済学者の河上肇に私淑し[7]、漁業水産経済学を研究していたが、ドイツに留学後、『統計利用に於ける基問題』で経済学博士号を取得する[8]も教授に昇格するのはずっと遅く1942年(昭和17年)だった。1945年(昭和20年)に経済学部長となるも翌年、戦争責任を自認し辞職する。 公職に当選した蜷川 府政においては、「憲法を暮らしの中に生かそう」の垂れ幕を京都府庁に掲げた。憲法記念日には日国憲法前文を記した屏風を背

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    urbansea 2009/02/13
    京都帝国大経済学部長-1948吉田内閣で中小企業庁長官-1950京都府知事(社会党公認) 次第に社会党から共産党へ比重を移す-1978引退-1981死去
  • 井上周八 - Wikipedia

    井上 周八(いのうえ しゅうはち、1925年〈大正14年〉3月9日 - 2014年〈平成26年〉9月26日)は、日経済学者。専攻は農業経済学。立教大学名誉教授。チュチェ思想国際研究所名誉理事長。 マルクス経済学における地代論で知られる。立教大学在職中より北朝鮮と朝鮮労働党のチュチェ思想の宣伝工作に熱意を燃やし、日におけるチュチェ思想宣伝の旗振り役として知られる。 1946年 明治学院高等商学部卒業 1949年 立教大学経済学部卒業[1] 1952年 東京商科大学卒業[1] 1956年 立教大学大学院修士課程修了 1957年 立教大学助手 1959年 立教大学大学院博士課程単位取得退学 1960年 立教大学講師 1961年 立教大学助教授 1965年 3月、立教大学経済学博士[1] 1968年 立教大学教授 1990年 立教大学定年退職。6月、立教大学名誉教授 特攻隊に志願するも、終戦

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    urbansea 2009/02/13
    立教の名誉教授 マルクス経済学 チュチェ思想の伝道に熱意 亡命直後の黄長燁とテレビで激論していたのはこの人だったか
  • 【秋田・男児殺害】 「鈴香、帰ってくるなよ」「会ったら殺す!」と同級生ら…畠山容疑者、疎外感も犯行要因か★11

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    urbansea 2009/02/13
    46「カマイタチの夜は当時発売されていない 」これがよくわからん。 127に上野正彦(検死官)と坂本啓一(滋賀県警鑑識)のコメント「当初警察が発表した、あの場所から転落したのではない」
  • プラットホーム - Wikipedia

    (「列車」は客車列車の意。高さはいずれも軌条面上からの測定。) 乗降場の高さが地面に近い場合は路面電車やバスなどのように車両の踏段を低くする場合が多い[注釈 1]が、外国では乗降客の少ない所ではホームの高さを低くして列車の着発のたびに移動できる踏段("step box")を用意して乗降させている場所もある[注釈 2]。しかし、日では踏段や床面が高いので列車の停車時間を減らし乗客の安全のため車両の床面や階段と乗降場の床の高さの差を小さくした乗降場が用いられている[1]。 貨物の場合は荷役積卸床面が貨車床面とほぼ同じ高床(こうしょう)ホームと、地面と同じかそれ以下の低床(ていしょう)ホームに分けられる[2]。なお、貨車床面より低いがある程度の高さの床面がある「直扱ホーム」という物もあり、こちらはトラックもしくはトレーラーでホームに乗り入れ、貨車にこれらの貨物自動車を直付けして荷役を行うもので

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    urbansea 2009/02/13
    単式ホーム相対式ホーム島式ホーム切欠きホーム櫛形ホーム
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    セメントドリンク、ブラウン管、吊るされた収納、OMORIカフェ、くり抜き、どや顔の初音ミク パチミラ福岡に出演する縁で博多に行きました。 楽しかったのでその時の写真をアップロードします。 博多駅のハートポスト 手描きのグリッチ カニの丸揚げ(おいしかった) フレッシュセメント という名前の飲み物(おいしかった)ごま+バナナスムージーっぽかった? 泡系…

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    urbansea 2009/02/13
    97年に50型プラズマテレビを世界に先駆けて市販 00年に国内プラズマ市場のシェア首位 04年にはNECから事業買収 しかし低価格競争に一線を画して価格を高めに設定した戦略が裏目 テレビ事業でも04年03月期から赤字
  • 田村勤 - Wikipedia

    田村 勤(たむら つとむ、1965年8月18日 - )は、静岡県榛原郡川根町出身[1]の元プロ野球選手(投手)。 経歴[編集] 島田高から駒澤大学に進学。大学時代は、東都大学リーグ通算29試合に登板し、3勝3敗。球は速かったが制球に難があった。駒大では3学年先輩に河野博文と横田真之、1学年先輩に新谷博、1学年後輩に野村謙二郎、3学年後輩に関川浩一がいた。大学卒業後は、社会人野球の田技研へ入社。社会人1年目でサイドスローに転向したのがきっかけに長年苦しんだ制球難を克服し、飛躍した[2]。 1988年には都市対抗野球大会に選手登録されるも出場はならなかった。 1989年に初出場。 1990年にはチームは敗れるものの補強選手として出場。1回戦に先発として起用される。1990年のプロ野球ドラフト会議で阪神タイガースから4位指名を受け、入団。駒大時代の後輩にあたる関川と、同じ年のドラフトで同じ球団

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    urbansea 2009/02/13
    駒大-本田技研和光 90年4位(1位は本田技研鈴鹿の湯舟) 兵庫県西宮市市庭町に『田村整骨院』 「静岡出身でお茶に目がなく、自前の急須をいつも持ち歩いていた」
  • 中川申也 - Wikipedia

    山内小学校の4年時から軟式野球を始める[1]と、山内中学校の3年時に、軟式野球部のエースとして第54回秋田県全県少年野球大会で決勝に進出。チームは延長戦の末に0対1というスコアで敗れたものの、相手チームのエースだった斎藤幸治(後年に東芝へ入社)と共に秋田経法大学附属高校(現在のノースアジア大学明桜高校)へ進学した。 高校1年時(1989年)の夏に、秋田代表として第71回全国高校野球選手権大会へ出場。背番号11の控え投手ながら、島根県立出雲商業高校との初戦で先発を任されると、完封勝利を収めた。チームはこの勝利を皮切りに、準決勝へ進出。中川は投手としては小柄ながら、童顔にして負けん気が強かったことから、「東北のバンビ」[1][2]と呼ばれるほどアイドル級の人気を集めるようになった[3]。2年時(1990年)には背番号1のエースとして、春の第62回選抜高校野球大会・夏の第72回選手権大会に出

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    urbansea 2009/02/13
    73年生まれ 91年ドラフト(1萩原 / 2久慈 / 3弓長 / 4桧山 / 5中川) 95年一軍登板のないまま引退 日本の高校野球史上最高に「かわいい男の子」だろう
  • 猪俣隆 - Wikipedia

    新潟県長岡市出身。遅くとも長岡市立東中学校から野球部に所属し、同校卒業後野球留学で上京し、堀越高校に進む。1982年夏の西東京大会準決勝に進出するが、日大二高に6回コールド負け。 1983年に卒業後法政大学へ進学。1年春の新人戦(対明大戦)では新人戦史上初のノーヒットノーランを達成した。2年時の1984年秋、4年広澤克実や福王昭仁擁する明大2回戦で完封勝利し、さらに3回戦でも法大が勝利し明大から勝ち点を挙げながら、優勝を明大にさらわれた。東京六大学野球リーグでは在学中4回優勝し、このうち85年春・86年春のリーグ優勝に大きく貢献した。猪俣が最上級生の西川佳明投手とチームの主戦投手として活躍し始めた3年時の1985年、全日大学野球選手権大会決勝で3年森浩之捕手らがいた東洋大に4-1の完投勝利。1986年の全日大学選手権は準決勝で流通経済大に敗退。同85年・86年と2年連続で日米大学野球選

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    urbansea 2009/02/13
    新潟県出身でドラフト1位指名を受け入団したのは猪俣が史上初(1位指名選手としても通算2人目) プロ入り以来79打席連続無安打(現在は工藤) 寿司職人としてワシントンの地元紙で「寿司界のジミ・ヘンドリックス」
  • アロンゾ・パウエル - Wikipedia

    1983年にサンフランシスコ・ジャイアンツと契約してプロ入り[5]。マイナーリーグベースボールのA級時代にはインディアナポリス国際空港で荷物の積み下ろしのアルバイト(時給7ドル)をしていた[19]。 1987年にモントリオール・エクスポズでメジャーデビュー[5]。 1990年以降はマイナーリーグのAAA級で打率3割を記録[17]。 1991年はシアトル・マリナーズ傘下のAAA級カルガリー・キャノンズ (PCL) でプレーしていたが[6]、53試合に出場して打率.375・7塁打・43打点の成績を残した[20]。この活躍が認められ、シーズン途中でマリナーズに昇格し、メジャーで78試合に出場[注 5]した[20]。 1992年は最終段階でロースターから外れ、AAA級カルガリーでプレーしていた[20]。 一方、セントラル・リーグ(セ・リーグ)の中日ドラゴンズは、1992年シーズンの開幕直前になっ

    アロンゾ・パウエル - Wikipedia
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    urbansea 2009/02/13
    3年連続首位打者 1997年、度重なる監督星野仙一による選手への暴力行為にたまりかねて直接意見したのと前後して起用機会を減らされ、シーズオフには成績不振を理由に自由契約
  • 長崎慶一 - Wikipedia

    長崎 慶一(ながさき けいいち、1950年5月13日 - )は、大阪大阪市阿倍野区出身(高知県生まれ)の元プロ野球選手(外野手)・コーチ、解説者。1981年から1987年までは「長崎 啓二」(ながさき けいじ)と改名していた。 北陽高校では、1966年夏の甲子園に1年生ながら6番打者、中堅手として出場。大会では1回戦で福島商を降すが、2回戦では桐生高に1回裏9点を奪われ、その後は前野和博(芝工大-東芝)らに抑えられ敗退[1]。2年上のチームメイトに遊撃手の園田喜則がいた。3年次の1968年にはドラフトで、阪神タイガースから8位指名を受けた。長崎自身も阪神ファンであったが、一般の職に就くことを望んでいた母親の反対を受け、やむなく入団を拒否[2]。 高校卒業後は1969年に法政大学経営学部へ進学し、野球部で入学早々から打線の主軸に座る。東京六大学野球リーグでは1年上のエース横山晴久らを擁し、

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    urbansea 2009/02/13
    北陽高校時に阪神から8位指名も法政へ で、巡り巡って阪神に入り、田尾ともチームメイトになるから人生は面白い 打撃コーチだった大下弘の娘と結婚・離婚 長崎慶一→1982長崎啓二
  • 源五郎丸洋 - Wikipedia

    東京都江東区生まれ[1]。1978年5月、父の転勤で佐賀県に転居する。大分県立日田林工高等学校では2年生の時、1980年秋季九州大会で準々決勝に進むが、築上中部高に敗退。翌1981年春季九州大会では決勝で興南高を完封し優勝を飾っている。興南高のエースは竹下浩二であったがこの試合には登板しなかった。同年夏は県予選で敗れ甲子園には出場できなかったが、右の格派として知られた。 1981年のドラフトで阪神タイガースは電電九州の右田一彦投手を1位指名するが、抽選で右田は横浜大洋ホエールズに交渉権を獲得され、外れ1位として指名された[2]。1位指名であったため、セレクションを受けていた早稲田大学へ進学せずに[3]、入団した。美しいフォームで入団当初は「村山実2世」と呼ばれ、将来を嘱望された。 1982年のキャンプ打ち上げ後の紅白戦で実戦登板し、掛布雅之らを抑える好投を見せるが、翌日のベースランニング

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    urbansea 2009/02/13
    81年のドラフトで右田のはずれ1位 86年引退後、源五郎丸スポーツ&薬局を開業、現在は一部上場企業で事業所長を務める等、営業マンとして活躍 07年にロッテ・下敷領が入団するまで英語表記で最長であった
  • 伊藤敦規 - Wikipedia

    伊藤 敦規(いとう あつのり、1963年5月29日 - )は、愛知県知多市[1]出身の元プロ野球選手(投手・右投右打)・コーチ。 1987年度のドラフト会議で阪急ブレーブス(後のオリックス・ブレーブス→オリックス・ブルーウェーブ)から1位指名を受けて入団し、1995年以降は横浜ベイスターズでプレーしたが、故障や成績不振から2年で解雇された[2]。しかし1997年以降はテスト入団した阪神タイガースで復活し、当時30歳代後半ながら同年 - 2000年代初めにかけて阪神で中継ぎ・抑えの主戦格として活躍し[2]、NPB通算483試合に登板した[3]。ロサンゼルスオリンピック野球の金メダリスト。 経歴[編集] プロ入り前[編集] 知多市立八幡中学校出身で、中学の後輩には山﨑武司(元中日・楽天など)、浅尾拓也(元中日)・小山雄輝(元巨人)がいる[4]。実家が建設会社(伊藤建設)を営んでいることから、家

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    urbansea 2009/02/13
    阪急最期のドラフト1位 「幼い頃からファンだった」とテストで阪神 引退後は実家の「伊藤建設」の営業主任を務める傍ら、毎日放送の野球解説者。05年に三軍コーチとして阪神に復帰。
  • 長嶋清幸 - Wikipedia

    小学生時代に投手として静岡県大会で準優勝し、浜岡町立浜岡中学校時代は一塁手となるも、自動車工業高では外野手兼投手となり4番を打った[2]。 2年次の1978年、練習試合を見に来ていた広島の木庭教スカウトが、予告塁打を打った長嶋の打撃力に目を留めた[2]。当時長嶋は阪神ファンであり、阪神の田丸仁スカウトも目を付け、3年次の1979年夏に田丸が自宅を訪問。下位指名の予定を伝えたが[2]、阪神からのドラフト指名は無く、翌日も連絡がない間に、広島、南海から獲得意向の連絡があり、連絡翌日に自宅を訪れた木庭が両親を説き伏せ、仮契約を済ませた[2]。この時、阪神は岡田彰布との交渉に手間取り、長嶋への連絡が遅れ、広島に先を越された田丸は悔しがった[2]。 結局、同年オフにドラフト外で広島東洋カープへ入団[2]。 1980年に一軍デビューを果たす。 1982年には右翼手、左翼手として40試合に先発出場。

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    urbansea 2009/02/13
    1979年、ドラフト外でカープ 史上唯一の日本シリーズMVPながらオールスターゲーム出場経験皆無で引退した日本人 かなりの「ワル」だったらしく、ドラフト外で入団したのも素行の悪さから各球団が指名を回避したため
  • 春風 (くるり) - Wikipedia

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    urbansea 2009/02/13
    岸田は結婚していたのか>>原曲を岸田繁の自宅の宅録機材で編集し世に出された。 岸田繁が自身の結婚式で歌った。