2009年4月13日のブックマーク (8件)

  • 日本原住民論 - Wikipedia

    八切止夫は、これまでの歴史の常識を覆す様々な説を唱えていた。「日原住民論」もその一つで、端的にいえば「大和朝廷は外来政権であり、それ以前に存在していた先住民族の末裔が部落民やサンカである」というものであった。 ただ八切史観では、これらの「原住民」は、長い歴史を通じて皇統のいずれかに繋がっており、皇室こそが原住民統合のシンボルであると想定していた。そのため、八切人は左翼思想の持ち主というわけではなかった[1][2]。 ところが、この「日原住民論」は、八切人の与り知らぬところで、日の新左翼に利用されることになった。 潜伏中の共産主義者同盟赤軍派幹部・梅内恒夫は、八切の日原住民論に触発され、「共産主義者同盟赤軍派より日帝打倒を志すすべての人々へ」を発表した。ここに初めて「日帝打倒」の根拠が「明治以降の大日帝国の悪行」から「日建国時の原住民迫害」に大きくシフトすることになった。窮民

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    urbansea 2009/04/13
    「上杉謙信は女性であった」の八切止夫→太田竜時代の太田龍→梅内恒夫 連続企業爆破事件で太田龍が疑われた要因だったか 偽史史観からオウムへの影響の指摘が記事中にあり
  • ちばあきお - Wikipedia

    ちば あきお(名:千葉 亜喜生、1943年〈昭和18年〉1月29日 - 1984年〈昭和59年〉9月13日)は、日漫画家。満洲国の奉天(現:中華人民共和国遼寧省瀋陽市)出身。4人兄弟の三男で、長兄は漫画家のちばてつや、次兄は千葉プロダクション社長の千葉研作(元漫画家)、弟は漫画原作者の七三太朗。 少年時代は手先が器用でラジオの修理なども出来たほど[注 1]。高校は夜間学校で、昼間は玩具製造工場に勤めていたが、身体を壊し退社した。療養中にちばてつやのアシスタントとして漫画界に携わる。 ちばてつやのアシスタントをする中、1967年『なかよし』(講談社)掲載の『サブとチビ』でデビュー。代表作は『キャプテン』、『プレイボール』など。ひたむきで健全な少年たちを明朗に描いた作品で人気を得た。 躁病を患った後、1984年9月13日、仕事場2階にて首を吊り自殺した。41歳没。絶筆となった『チャンプ

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    urbansea 2009/04/13
    1984年9月13日 躁鬱病を患った後、自殺 41歳 / 1979年『キャプテン』終了後、休筆 満身創痍で書き上げたのか
  • 桂三木助 (4代目) - Wikipedia

    新入り落語家である前座は、師匠宅における労働(家事・掃除など)の義務があり、当然それは早朝から深夜に及ぶものである。しかし、三木助はようやく昼過ぎに師匠宅に車で乗り付けるという重役出勤ぶりで、それもただ「出勤」しただけで、労働らしきものは全く行わなかった。師匠小さんも特に注意せず、野放しにさせた。他の弟子たちは上下問わず「あの人(=三木助)は宇宙人みたいな人だから…」と呆れたまま放置するのであった。 実質的な前座作業をしていないということは功罪両面があり、後のタレントとしての成功につながった。これは苦役を体験することからくる「暗さ」や「セコさ」とは縁がなく、御曹子ならではの屈託のないキャラクターがそのまま活かされたことにある。 反面、小さん一門ひいては落語家社会からの反感を買うこととなり[1]、修行体験で古典落語を身体に沁み込ませなかったこと、それでも古典落語を無理にやろうとしていたので、

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    urbansea 2009/04/13
    01年01月03日首つり自殺 43歳 「か 自分でも整理がつかないと同時に私の力のなさを痛感する」と書かれており、文字はかなり乱れていたという。冒頭の「か」の意味は明らかにされていない。
  • 仁義の墓場 - Wikipedia

    日活アクションスターとして活躍し、日活退社後は松竹、東宝の諸作品で主演・準主演として活躍していた渡哲也の東映初主演作品。監督は1973年からの『仁義なき戦い』シリーズで「実録ヤクザ映画」ブームの先鞭を切った深作欣二で、監督の起用は渡人の希望による[1][2]。 仁義、組織、盃、掟に牙を剥き、戦後ヤクザの語り草ともなった実在のヤクザ石川力夫の型破り、かつ破滅的な生き様を凄惨な暴力描写で描き通した作品で、実録ヤクザ路線の極北と評される[3][4]。公開当時の興行成績は振るわなかったが[5]、後にその一種異様な迫力が評価され[6]、キネマ旬報「オールタイムベスト・ベスト100」日映画編(1999年版)では、38位に選出されるなど作品の評価は高い。 翌年には同じ深作監督による続編的作品(物語の連続性はない)『やくざの墓場 くちなしの花』も制作されている。 終戦直後の新宿は、ヤクザと外国勢力との

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    urbansea 2009/04/13
    「新宿・常円寺境内。石川が建てた自分と地恵子、そして今井の墓石がある。そこには「仁義」の二文字が刻まれていた。その墓を訪れる人は、もう誰もいない。」←読ませる。映画としては「新・仁義の墓場」の方が好き
  • 江青 - Wikipedia

    「藍蘋」時代(1935年) 江 青(こう せい、ジャン・チン、拼音: Jiāng Qīng, 1914年3月5日 - 1991年5月14日)は、中華人民共和国の最高指導者、女優。毛沢東の4番目の。 山東省諸城県出身。文化大革命(文革)を主導し、「紅色女皇」と呼ばれた。文革末期には王洪文・張春橋・姚文元と「四人組」を形成し、中国共産党内で影響力を持った。毛沢東の死後に逮捕、投獄され、死刑判決を受ける。無期懲役に減刑ののち、病気治療仮釈放(保外就医)中に北京の居住地で自殺した。 江青は何度も改名しており、「江青」は最も知られていた名前である。 出生時の名は李淑蒙、間も無く李進や李進孩に改名した。 小学校入学時には、縁起のいい李雲鶴と名乗り、雲も鶴も中国での吉祥紋様の一つ。 女優として活動していた頃は中国語で可愛い発音に聞こえる藍蘋に改名し、この名前は中国で広く知られていた。 延安に移った後に

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    urbansea 2009/04/13
    91年 精神病の療養中に自殺 古新聞の片隅に書かれた「毛主席 あなたの生徒 あなたの妻が いま…会いに行きます」というのが遺書である。←「いま、会いにゆきます」の出典?
  • 石川力夫 - Wikipedia

    石川 力夫(いしかわ りきお、1926年 - 1956年2月2日)は、ヤクザで、昭和20年代に新宿駅東口に一大勢力を築いた新宿「和田組」(組長・和田薫)の幹部。ヤクザの憲法である「仁義」に背いた反逆者として斯界の伝説になり、後に「仁義の墓場」というタイトルで半生が映画化された。 大正15年、茨城県水戸市出身。10代で東京に出るとグレて身を落とした。和田組の組長和田薫から盃を貰い東京・新宿の闇市を根城に生活していたが、1946年の10月に親分・和田薫の家に殴り込み日刀で斬りつけ、全治1ヶ月の重傷を負わせた。 襲撃した直後に可愛がって貰っていた新宿十二社の鳴島栄次郎のもとを訪れた。親分にケジメをつけたという石川に怒ったが、石川が和田を斬りつけたとは知らなかったので鳴島は石川を捕まえなかった。和田とは幼い頃よりの友人である鳴島は以前に和田組の若い衆が石川を制裁しようとする場面で庇ったことがあり

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    urbansea 2009/04/13
    「仁義の墓場」のモデル 1956年、刑務所の屋上から飛び降り自殺した。辞世の句は「大笑い三十年の馬鹿騒ぎ」。
  • 見沢知廉 - Wikipedia

    見沢 知廉(みさわ ちれん、1959年8月23日 - 2005年9月7日)は、日の新右翼活動家、作家。元一水会相談役。元統一戦線義勇軍総裁。名は高橋 哲夫(たかはし てつお)。 旧姓は平井。 経歴[編集] 生い立ち[編集] 1959年、東京都文京区千駄木に2人兄弟の長男として生まれる。父は芸能プロダクション経営者。母はもともと宝塚志望だったが厳格な父親に禁じられて断念。このため、母は息子に自らの夢を託し、幼い哲夫を劇団ひまわりや劇団若草などの児童劇団に通わせた[1]。小学生の時は表向きおとなしい優等生で、日進学教室や四谷大塚に通って受験勉強に励み、その傍らでヒトラーの『わが闘争』やドストエフスキーの『罪と罰』を耽読した。 母方の祖父に倣って将来は早稲田大学に入れたいとの母の希望により、早稲田中学校に入学。中学時代、父の経営する会社が倒産して一家離散し、両親が離婚して母に引き取られ、高

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    urbansea 2009/04/13
    05年9月7日、横浜市戸塚区の自宅マンション8階から飛び降り、転落死。46歳。 ←末期は横浜なのか。中野のマンションじゃなくて。書籍の奥付に自宅住所を載せていた最後の小説家じゃなかろうか。
  • 西村潔 - Wikipedia

    東京都立立川高等学校に通い、在日米軍の横田飛行場でアルバイトをしながら映画浸りの日々を送った後、一橋大学へ入学。同級生には石原慎太郎がいた。 1956年、大学を卒業後、東宝へ入社。千葉泰樹・黒澤明・堀川弘通・成瀬巳喜男・多猪四郎・川島雄三・須川栄三・古澤憲吾・恩地日出夫らの助監督を経て、1969年、密室の人間群像を緊迫したサスペンスとして描いた黒沢年男主演のアクションスリラー『死ぬにはまだ早い』で監督に昇進。続く『白昼の襲撃』、『豹(ジャガー)は走った』(1970年)とともにその才気が注目され、東宝では異色のアクション監督の誕生と期待された。 千葉真一は西村とテレビドラマ『燃える捜査網』(1975年 - 1976年)[1]、『大非常線』(1976年)[2]、テレビ映画『東京大地震マグニチュード8.1』(1980年)と自身の主演作品でタッグを組んでおり、「(西村の)都会的でハードボイルドな

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    urbansea 2009/04/13
    93年11月17日、神奈川県葉山の海岸で溺死体で発見、捜査当局は自殺と断定。61歳 一橋大学で石原慎太郎と同級生 「夏服のイヴ」は西村潔だった。