1945年5月、山口は同年8月7日までの予定で広島の造船所に出張する。8月6日に広島市に原爆が投下されたとき、彊は職場への通勤途中であり、爆心地から約3キロメートルの広島電鉄江波線江波電停にいた[3] ところ、被爆した。この被爆で彼は左鼓膜が破れ、左上半身に大やけどを負った[4]。彊は妻と子供に会うため、国鉄山陽本線己斐駅から翌日の救援列車に乗って長崎へ帰った[3]。 8月9日、長崎市に原爆が投下され、長崎三菱造船の事務所で再び被爆する[3]。妻と子供も原爆の後遺症とみられる癌のため、2005年に息子が、2008年に妻がそれぞれ亡くなった[4]。 終戦後、長崎三菱造船を解雇され、長崎に駐留していたアメリカ海兵隊第5大隊に通訳として従事する。その後中学校の英語教員を7年間務めた後、三菱造船に復職し、定年までタンカーの設計を行った[1]。 2006年、記録映画『二重被爆』に出演した(後述)。