2011年5月1日のブックマーク (12件)

  • 内陸国 - Wikipedia

    この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "内陸国" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2016年4月) 世界の内陸国(紫色は二重内陸国) 世界の島国 (領土がすべて島で構成される国、緑色は陸上の国境を持つ国) 陸上の国境がない国 (大陸であるオーストラリアを含む) 内陸国(ないりくこく、英: landlocked country)とは、陸の国境に囲まれ、海がない国家である。 世界には48の内陸国がある。 内陸であることは、河川などの水系さえ確保できていれば防衛上はこれ以上ない利点であった。河川は上流であるほど抑える価値があり、下流域は上流域より価値が低かった。日

    内陸国 - Wikipedia
  • 中流から上には縁のない話 - 非国民通信

    昨年は随分と長い間失業していたわけですが、痛感したのは「若い内なら働ける」という感じの仕事ばかりが世の中に溢れているのだなぁ、と言うことでした。非正規にせよブラック企業にせよ、若い内なら「妥協すれば」就労機会には事欠かないけれど、トウが立ってくると切り捨てられる、そういう傾向が強まり続けてはいないでしょうか。中高年はコネがないと再就職はなかなか難しいと就職セミナーでも聞きましたが、ともあれ中高年になっても働き続けられる職場というのは減る一方に見えます。中高年を切り捨てて若者向けに仕事は提供されるけれど、その若者も昇給してしかるべき年になったら切り捨てられる、そこで新卒者が希少な「中高年になっても働き続けられそうな職場」を探すと当然のことながら少ない椅子の奪い合いになって就職できない人が続出する、そして就職できない若者に「選り好みするな」とコンサルの類が説教する――これがお決まりのパターンな

    urbansea
    urbansea 2011/05/01
    このくらいの生活(不安)感は、旧媒体では無視されがちな域。
  • 福島の地で、放射線の中でくらしていくということ。 - あお、きいろ、みどり。な日々。

    郡山市に住んでいる私(30代独身おんな子どもなし)が 放射線に対して自分が感じていること、 身の回りのようすなどについて書いてみようとおもった。 ちなみに現在、福島県内の放射線量は計画的避難地域に次いで 福島市・郡山市が高い数値です。 福島県内の小中学校等の放射線量マップ 放射線に対する意識の移り変わり 原発に関するトラブルが伝えられ始めたころ、 放射線に関する情報がかなり少なかったことと、 余震活動が激しかったこともあり、自分も自分の周りもほぼパニック状態。 デマメールやデマ電話もかなり出回っていた。 さらに事態が深刻さを増してきた14・15日ごろ、 家族と避難について具体的に検討したし、実際に避難した人も多い。 職場は余震や燃料不足もあり、業務を続けることが困難であるとして、 3月16日より約1週間の自宅待機となった。 12日からの1週間ほどは、ネットでも実際の知り合いからも、 「町内

    福島の地で、放射線の中でくらしていくということ。 - あお、きいろ、みどり。な日々。
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    urbansea 2011/05/01
    表題の「くらし」という言葉がしっくりくる、やわらかな文章による、郡山での生活
  • 2時間ほど前に魔法使いになった

    昔からよくやってた妄想だと、 高校生まで地味でまじめに過ごしてきて、 都内の大学に通うために上京して、 WithとかMOREとか、そういう雑誌に載ってそうな小綺麗な雰囲気で、 割と堅実に将来考えてて、手堅くOLとか目指してそうな女子大生と 大学の1、2年目くらいで付き合いだして 社会人2、3年目で結婚して 今頃は温かい家庭を築いているのというのが夢だった。 だが、男子校→理系単科大→メーカー研究開発で地方勤務 という独身黄金ルートの俺には出会いは皆無だった。 先日、中学まで同じだった幼なじみが結婚の報告をよこした。 最後の何かが崩れた気がした。 何も行動しなかった代わりに、何の代償も求めなかった。 萌えアニメや、エロゲーの類とは一切かかわらなかった。 あまりに現実離れした女が好みじゃなかった。 キャバクラや風俗も行かなかった。 けばけばしい女が好みじゃなかったからだ。 もちろん、芸能人やア

    2時間ほど前に魔法使いになった
  • 関敬六 - Wikipedia

    関 敬六(せき けいろく、名:関谷 敬二(せきや けいじ)[1][3]、1928年3月25日[1][2][3] - 2006年8月23日[1][2][3])は、日のコメディアン、俳優、声優。栃木県足利市出身[1][2]。 1945年3月旧制栃木町立栃木商業学校(現在の栃木県立栃木商業高等学校)を卒業して、陸軍特別幹部候補生として入隊するも、終戦で除隊。その後、法政大学政治経済学部に入学[4]、1951年最後の旧制大学専門部を卒業した。 浅草の税務署に勤務していたが、出征中に演じた素人芝居が忘れられずに仕事をさぼって度々喜劇の舞台に出演するようになる。榎健一のエノケン劇団を経て、浅草フランス座に所属した。当時は渥美清や谷幹一もおり、三人で下積み時代を支えあった。1959年にはこのトリオでスリーポケッツを結成し、一躍お茶の間の人気トリオとなる。その後、スリーポケッツは解散して1975年に

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    urbansea 2011/05/01
    ダチョウ倶楽部の持ちギャグ「ムッシュムラムラ」は、もともと関が海外アニメの吹き替えで台詞として使ったものであり、さらにそのもとをたどれば、関が麻雀の時に発していた意味不明のかけ声であった。
  • 滝川事件 - Wikipedia

    事件は、京都帝国大学法学部の瀧川幸辰教授が1932年10月28日に中央大学駿河台校舎で開催された刑法学講演会(中大法学会主催)[3]で行った講演「『復活』を通して見たるトルストイの刑法観」の内容[注 1]が無政府主義的であるとして、文部省および司法省内で問題化したことに端を発する[4]。ただしこの時点では、宮英雄法学部長が文部省に釈明し、問題にはならなかった。ところが1933年3月、共産党員およびその同調者とされた裁判官・裁判所職員が検挙される「司法官赤化事件」が起こると、状況は一変することになった。この事件をきっかけに蓑田胸喜ら原理日社の右翼、および菊池武夫(貴族院)や宮澤裕(衆議院・政友会所属)らの国会議員は、司法官赤化の元凶として帝国大学法学部の「赤化教授」の追放を主張し、司法試験委員であった瀧川を非難した。 鳩山一郎 1933年4月、内務省は瀧川の著書『刑法講義』および『刑法読

    滝川事件 - Wikipedia
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    urbansea 2011/05/01
    滝川事件に関連して京都帝大を辞職した教官のうち、18名が立命館大学に教授・助教授などの形で移籍した。結果、立命館をはじめ京大以外の関西圏大学法学部の発展を促すことにもなった。
  • 迫害され続けた京都大学の原発研究者(熊取6人組)たち(週刊現代) @gendai_biz

    「原発の開発には胡散臭いところがあった。モノは必ず壊れる。でも東電など電力会社は、絶対に壊れないと気で思っているように見えた。チェルノブイリ事故があったとき、日では『ソ連の安全に対する意識が遅れていたのが原因だ』なんて言われたけど、日のほうがよほどひどかったね」 落ち着いた口調で語るのは京都大学原子炉実験所の今中哲二助教(60歳)だ。 原発を推進してきた学者たちが「想定外」という言葉を繰り返すのとは対照的に、今日の福島第一原発のような大事故がいつか起きると警告を発し続けてきた学者グループがいる。 彼らはこれまで「異端の研究者」と見られ、テレビや新聞でもほとんど紹介されることがなかった。それどころか、学会では長く冷や飯を喰わされ、研究費や昇進でも明らかな差別を受けてきた。 遅きに失した感は否めないが、今回の事故で、そんな彼らにようやく注目が集まりつつある。原発関係者たちは、推進、批判の

    迫害され続けた京都大学の原発研究者(熊取6人組)たち(週刊現代) @gendai_biz
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    urbansea 2011/05/01
    反原発は危険思想…みたいなものか。
  • 松永二三男 - Wikipedia

    新潟県見附市生まれ[1]。見附市立見附中学校[2]、新潟県立長岡高等学校、明治大学政治経済学政治学科卒業[1]。1974年、アナウンサーとして日テレビに入社[1]。同期には楠田枝里子がいる。 初レギュラーは『おはよう!こどもショー』の「実況中継のお兄さん」。入社当初はスポーツ中継を主に担当し『全日プロレス中継』(ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田らの試合)の実況、『独占!!スポーツ情報』の初代司会[3]。スポーツ中継から退いた1990年代以降はバラエティ番組の司会や報道番組のキャスターとしても活動した。 1983年から約3年イギリスのBBCの海外放送部日語部部員として赴任[1]。 1987年、イタリアのローマで開催された第2回世界陸上競技選手権の女子走高跳で、ステフカ・コスタディノヴァ( ブルガリア)が当時の世界新記録(2m09)を達成した場面やカール・ルイス、セルゲイ・ブブカらの実

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    urbansea 2011/05/01
    1988年のソウルオリンピックではジャパンコンソーシアムの実況メンバーに選ばれた。レスリング男子フリースタイルの佐藤満(52kg級)、小林孝至(48kg級)の金メダル獲得の試合を実況したのは松永である。
  • そのとき母はハチミツを買った - sekibang 1.0

    実家がある福島県(福島市)に帰って来ている。ここは今日で最もホットな土地の一部。実家はいつもの通り穏やかで家の人も放射性物質が不安ではあるけれど、震災以降一週間ぐらいライフラインが止まった時の苦労話を笑い話のように語れるぐらいには余裕がある。近所には瓦が落ちて屋根にブルーシートがかけてある家(瓦不足と人手不足で修理ができないらしい)があり、道路に入った大きな亀裂は地震のすごさを物語っていた。 近所に住む91歳のおばあさんは、地震があってからコタツにあたりっぱなしで外にでてこなくなってしまったそうだ。地震の前はこのあたりでは一番元気なお年寄りで、働き者だったのに、と祖母は語る。一昨日は親戚の農家の方がウチに来ていた。祖父の従兄弟にあたるそのおじいさんは、良いものは全部東京に持っていかれて、福島には悪いものしか残らない。このあたりでは東京の悪口ばかりだ、とこぼしていた。苦笑するしかなかった。

    そのとき母はハチミツを買った - sekibang 1.0
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    urbansea 2011/05/01
    新しい日常
  • 大岩賞介 - Wikipedia

    この存命人物の記事には、出典がまったくありません。 信頼できる情報源の提供に、ご協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。 出典検索?: "大岩賞介" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2012年8月) サラリーマン時代に当時の放送作家界の大御所・はかま満緒を紹介され師事。はかまから萩欽一を紹介されて座付き作家となり、作家集団である「パジャマ党」の一員として萩を支えた。『欽ちゃんのドンといってみよう!』(ニッポン放送)では構成だけでなくいわゆる「笑い屋」としてスタジオに入り、独特の「フォッフォッフォ」という笑い声で番組を盛り上げた。 その後『オレたち

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    urbansea 2011/05/01
    「タケちゃんの思わず笑ってしまいました」は、このひとと高田文夫と景山民夫が作家
  • せんだみつお - Wikipedia

    せんだ みつお(1947年(昭和22年)7月29日 - )は、日のタレント、コメディアン[1]。 駒澤大学仏教学部中退[1]、服部栄養専門学校卒業。調理師の免許を取得[2]。実息は俳優・せんだ雄太、実娘はタレント・せんだるか。 芸名[編集] 芸名の由来は、慣用句の「千三つ」から[3]。 後述の『東芝ワイドワイドサンデー』の仕事の際に、ニッポン放送ディレクターの上野修が名付けたものである[4]。当初は漢字だったが、声優の千田光男がいることから、ひらがなにした[5]。 千田光男とは血縁関係はなく、名前の読みが同じだけの全くの別人だが、誤って千田のギャラがせんだに振り込まれるなどの出来事があり、互いに意識していた。 この2人は海外テレビドラマ『特捜刑事マイアミ・バイス』と、映画『ブルース・ブラザース』の吹替えで共演している。 過去には千田光雄やせんだ光雄、ムッシュ中野の芸名で活動していた時期も

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    urbansea 2011/05/01
    ビートたけしの「ナハッナハッ」「コマネチッ」(ナハネチッ)は、ラジオのネタを考えていたビートたけしがせんだのギャグを真似したものだが、さらに元々は湯原昌幸のギャグをせんだが真似したものであるという
  • 麻雀博物館 - Wikipedia

    株式会社竹書房の野口恭一郎会長が設立発起人となり、1999年(平成11年)4月10日に開館した[1]。初代館長は大隈秀夫[2]。竹書房の保養所を流用したため、建物の後ろ半分は麻雀合宿の会場などとしても使われていた[3]。 世界各地の骨董品的価値のある様々な麻雀牌のほか、麻雀卓、牌ケース、麻雀に関する絵画、麻雀書籍などが収蔵されており、オリジナルグッズなども販売していた。運営委員として麻雀プロの梶琢程が勤務し、事実上の学芸員的役割を務めていた。 2010年(平成22年)のNHK大河ドラマ「龍馬伝」で所蔵の牌が使われたシーンがある。 2012年(平成24年)に休館(理由は不明)。その後同館では所蔵品をオークションにて売却する方針を明らかにするも[4]、中国側から「(所蔵品の中に)愛新覚羅溥儀の使用した牌など、中国の国有財産であるものが含まれる」との抗議を受け売却は中止され、2013年(平

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    urbansea 2011/05/01
    千葉県いすみ市 竹書房の野口恭一郎会長が設立発起人となり、1999年4月10日に開館 菅直人の自動点数計算機も収蔵