2011年5月22日のブックマーク (13件)

  • 岡本武 - Wikipedia

    武(おかもと たけし、1945年7月17日 - 1988年?)は、よど号グループのメンバー。北朝鮮発表によると、1988年に死亡したとされている。テルアビブ空港乱射事件を起こした岡公三は弟。 熊県出身[1]。父親は小学校校長[2]。熊県立熊高等学校卒業。京都大学農学部中退。1968年に東大安田講堂事件に参加。1970年に仲間8人とともによど号ハイジャック事件を起こし、北朝鮮に亡命。平壌郊外の日人村で他のよど号犯とともに暮らす。 1976年に結婚。当初、結婚相手は現地の朝鮮人女性と発表されていたが、後に高知県出身の福留貴美子であることが確認された。よど号メンバーののほとんどが北朝鮮の思想に共感を持っていたことが考えられる中、福留のみ親北朝鮮思想が確認されておらず、一部には北朝鮮に拉致されたとする見方もある。 1980年代初頭によど号グループリーダーの田宮高麿と方針をめぐって

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    urbansea 2011/05/22
    >>1980年代末に漁船を奪取して北朝鮮から脱出を図ったものの捉えられ、強制収容所に送られ収容所内で死亡したとの情報が北朝鮮を取材しているジャーナリストらによってもたらされている。
  • Blue-Periodさんの日記

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  • あたしで勃つ人ならそれでいい

    話が合わなくてもいい 人として尊敬できなくてもいい 安定収入が無くてもいい あたしで勃つ人ならそれでいい 一度だけじゃなくて何度もあたしで勃つ人 美人の嫁をもつ友達が羨ましい おまえもあれくらい美人だったら良かったのにとか おまえの体はここがよくないとか 最近急に老けたんじゃないかとか おまえは濡れにくくて面倒くさいとか そういうことを思っても心に閉まっていてくれて あたしに見えるとこだけいい顔して あたしで勃ってくれたらそれでいい 下種でもいい 教養がなくてもいい 根性なしでもいい 怠惰でもいい 長続きせずすぐ放り出す人でもいい お金が無くなったら二人揃ってキチガイのふりでもして生活保護をもらえばいい 子供はいらない 未来を担う存在に見せる背中なんて持ってない 性欲だけ充たしてくれたら 性欲だけ充たしてあげる 肛門を舐めたっていい 顔面に尿を浴びたっていい あたしで勃ちつづけてくれたら

    あたしで勃つ人ならそれでいい
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    urbansea 2011/05/22
    研ナオコの唄の世界
  • 小泉せつ子 - Wikipedia

    この存命人物の記事には、出典がまったくありません。信頼できる情報源の提供に、ご協力をお願いします。存命人物に関する出典の無い、もしくは不完全な情報に基づいた論争の材料、特に潜在的に中傷・誹謗・名誉毀損あるいは有害となるものはすぐに除去する必要があります。 出典検索?: "小泉せつ子" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL(2013年8月) 小泉 せつ子(こいずみ せつこ)は、日の放送作家、脚家、コピーライター、CMプランナー。男性。東京都出身。月刊誌のコラムを担当したり、たけし軍団野球イベントのプロデュースも手がける。日家連盟正会員。日放送作家協会正会員[1]。TVでは主にバラエティ、スポーツ、情報番組、経済番組の構成を担当している。 来歴・人物[編集] 小学校3年からテレビ、ラ

  • Lunatic Prophet Portal- Latest News on Portal | Breaking Stories and Opinion Articles

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    urbansea 2011/05/22
    この夏にむけて、ノベルティのうちわが大量に出回ることになる。そこにある「がんばろう」は広告主のメッセージ。「がんばろう日本」とは、実は最初からそういうもので、汗だくのニンゲンの言葉ではない。
  • 風日祈宮放火事件 - Wikipedia

    テロ攻撃をうけた風日祈宮 風日祈宮放火事件(かざひのみのみやほうかじけん)とは、1975年9月15日に三重県伊勢市の伊勢神宮内宮境内で発生した放火テロ事件。 日の新左翼の共産主義者同盟戦旗派(現:アクティオ・ネットワーク)が起こした事件である。 1975年9月15日午後0時20分、伊勢神宮内宮境内にある別宮風日祈宮の瑞垣御門が燃えているのを1人の参拝者が発見し、500mほど離れた神楽殿にいた神職に「あのお宮は、いつもああやって燃えているお宮なのですか」と尋ねた。発見者は「かざひのみのみや」という読みから「火の宮」と早合点し、過激派のテロとは思っていなかったという[1]。 驚愕した神職は直ちに現場に急行し、玉砂利をぶつけ、脱いだ袴で火を覆うなどして何とか消し止めたが、瑞垣御門が半焼してしまった[1]。 現場近くから「アジア人民の血債にかけて天皇訪米絶対阻止、共産主義者同盟戦旗派」と書かれた

    風日祈宮放火事件 - Wikipedia
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    urbansea 2011/05/22
    1975年 戦旗派 >>燃えているのを1人の参拝者が発見し、近くにいた神職に「あのお宮は、いつもああやって燃えているお宮なのですか」と尋ねた。発見者は「かざひのみのみや」という読みから「火の宮」と早合点
  • 吉田金太郎 - Wikipedia

    京都市立堀川高等学校卒業。高校時代、まだ創刊したばかりの「新左翼」紙(現在の「人民新聞」)の事務所によく制帽・制服姿で訪れ、手伝いをしていたという[1]。高校卒業後、日立造船で工員として働くが、労働組合活動へ傾倒し、ブント系反戦青年委員会に参加。1970年に20歳時に仲間8人とともによど号ハイジャック事件を起こし、北朝鮮に亡命。学生運動がきっかけで参加した者が多いよど号メンバーの中では唯一の労働者出身である。 1985年8月末、吉田の実家に吉田が難病のため面会に平壌までこられないかというよど号グループからの手紙が届く。9月4日、平壌市内の病院で急性肝萎縮症のため亡くなり、翌5日によど号メンバーにより葬儀が営まれた。吉田の遺族は10月に北京から平壌入りをする。平壌でよど号メンバーから木箱に入った吉田の遺骨と死亡診断書を受け取る。 しかし、この死亡に至る経緯には疑念が持たれている。高沢皓司は、

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    urbansea 2011/05/22
    日立造船で工員→よど号 >>吉田の祖父が富裕商人だったことが北朝鮮から出身を問題視される可能性があったとして、1977年以前に強制収容所に送られて死亡したとする見方がある。
  • 『1972年2月22日 近づいた田中さん銃撃される (あさま山荘事件)』

    ■流血ハプニングに緊張 背中に銃声、バッタリ(朝日・夕刊) 恐怖の山荘にのこのこ1人の男。無造作に玄関に入ろうとし、戻ってくるところを銃声一発、真っ赤な男の地が真っ白な雪にしみた。ろう城4日目を迎えた22日、浅間山荘ではじめて重傷者が出た。3日間もこう着状態が続いた後の山荘に、このような血なまぐさいハプニングがおきたのは、犯人たちに聯合赤軍の息子を持つ2人の母親が、発砲にもめげず、涙交じりのすぐあとのことだった。このあと警官2人も銃撃されて負傷。空気はけわしさに包まれている。 朝日は撃たれた田中さんを「一人暮らしの変わり者」と見出しをつけたりして、あまり同情的でない。前日にも現れ、そのときは軽井沢警察署に連行されていた。その後どこかに宿泊し、再び現れて悲劇にあった。山荘内の者たちは、田中さんを刑事と勘違いしていた。撃ったのは坂口。田中さんは撃たれてから立ち上がって、「私を撃ちましたね。私を

    『1972年2月22日 近づいた田中さん銃撃される (あさま山荘事件)』
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    urbansea 2011/05/22
    坂口弘>>「君のお母さんはインテリだからよく話すね」と彼に嫌味を言った。吉野君は黙っていた。いまから思うと、酷い嫌味だった。
  • 『1972年3月15日 丹沢リンチ 永田洋子が動機自供』

    1972年3月15日 丹沢リンチ 永田洋子が動機自供 |   連合赤軍事件スクラップブック (あさま山荘事件、リンチ殺人事件、新聞記事) ■丹沢リンチ 永田洋子が動機自供(毎日) 永田は「これまでの10年間の闘争生活は楽しいことばかりだった。こんど逮捕されたのは路線に誤りがあったためである」と、いままでになく反省の態度を見せた。さらに「丹沢アジトでは男1人女1人を殺した」と事件の事実を認め、殺害した理由については「京浜安保共闘のメンバーで1人がアジトから脱走をはかった。もし警察に寝返りをした場合、アジトは発見され、組織の機密が守れなくなると思い、このあと2人を総括にかけて殺した」と、はじめて動機について供述を始めた。 いままでは丹沢アジトのリンチについて「森さんがそういっているのならそうでしょう」とか、森の供述を「そのとおり」とか、消極的自供しかしていなかったが、この日は、初めて自ら犯行を

    『1972年3月15日 丹沢リンチ 永田洋子が動機自供』
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    urbansea 2011/05/22
    毎日、「悪霊」と結びつける見出し/頼良(らいら)ちゃんの祖父は「黙っていたが名前はあまり気に入りません」。(毎日)/森は「森」と呼んでも返事しない。「渋川21号」といえば「ハイ」。(毎日)
  • 『1972年3月17日 週刊誌広告特集 ~週刊誌は連合赤軍の記事でいっぱい』

    この日は記事があることはあるのだが、ささいな記事ばかり。昨日でネタ切れした感じだ。 ■その他の記事 郵便強盗の藤沼真吉(24)は判決公判で赤軍派・連合赤軍の犯行を非難した。(朝日) 森ら13人を山田孝の殺人、死体遺棄で再逮捕した。(各紙) 記事がさびしいので、3月に掲載された週刊誌の広告をまとめて紹介する。面白いことに週刊誌はタイトルこそ過激だが、事件の詳細を追いかけるというより、生い立ちや証言によるエピソードが多くなっている。これは新聞が暴走して週刊誌の領域をってしまったことと無関係ではなさそう。その分、週刊誌のほうがよく取材しているという印象だ。 広告を見るだけでも、幅広い層から注目を集めた事件だということがわかる。しかもあさま山荘事件以来、これがずっと続いているのある。 ■週刊文春 3月27日号 「死の司祭 永田洋子・森恒夫における非人間研究」 ■週刊新潮 3月25日号 「人間失

    『1972年3月17日 週刊誌広告特集 ~週刊誌は連合赤軍の記事でいっぱい』
  • 『1972年3月25日 吉野雅邦同行し、向山茂樹、早岐やす子の遺体発掘』

    この日は久しぶりに連合赤軍事件が紙面を埋めた。向山、早岐の遺体発掘で計14名の殺害が明らかにされた。ただし、向山、早岐の殺害は、連合赤軍になる前の京浜安保共闘(革命左派、永田・坂口のグループ)の単独の犯行である。 ■読売朝刊1面 なんと新聞タイトルの横に向山、早岐の写真・・・大変めずらしいレイアウトだ。 ■向山と早岐「一杯飲もう」と連れ出す(毎日) (クリックすると読めます) 2人は「共産主義化」の論理ではなく、純粋に逃亡者の抹消のために殺意を持って殺された。 このとき車の運転をさせられた小嶋和子は激しく動揺し、しばらく精神が不安定になってしまう。連合赤軍になってから全体会議で「2人(の殺害)のときに、いてよかった」と発言したところ、森から「そんなこと言っていいのか!」と怒鳴られてしまった。 ■向山 処刑の前に転向の手紙(読売) 向山は昨年6月6日、親類宅にやせ細った体で現れ、そこから「運

    『1972年3月25日 吉野雅邦同行し、向山茂樹、早岐やす子の遺体発掘』
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    urbansea 2011/05/22
    これは便利!>>「殺しの相関図」(読売夕刊)
  • 『2011年2月5日 【号外】永田洋子死亡(65才)-新聞報道』

    連赤スクラップブックは時系列に書き進めているが、「永田洋子死刑囚死亡」のニュースが飛び込んできたので、号外としてお伝えする。2月7日朝刊で一斉に報じられたので、読み比べてみよう。 ■朝日新聞 情報が充実 経歴が最も詳しく正確に説明されている。瀬戸内寂静の「とても幼かった」、加藤倫教の「自分たちの中に誤りがあったと認めきっていない」という甘口・辛口のコメントを併記。 ■産経新聞 記者のコメントに同感 最後の「病に倒れた永田死刑囚は、人生をどう『総括』したのだろうか」に同感。佐々淳行の「早く死刑死刑執行すべきだった」のコメントを掲載。 ■読売新聞 永田のめずらしい写真を掲載 永田のめずらしい写真が掲載されている。加藤倫教と思われる元連合赤軍メンバーの「もっと深く掘り下げてほしかった」というコメントと、永田を自供させた松尾邦弘弁護士(当時検察官)の「普通の人間と同じ」というコメントを掲載。 「1

    『2011年2月5日 【号外】永田洋子死亡(65才)-新聞報道』
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    urbansea 2011/05/22
    東京・日経がマグショットを使っている。アカハタは書き出しが「ニセ『左翼』暴力集団」
  • 夜ノ森駅 - Wikipedia

    大正初め、[要出典][3]日鉄道の基計画は富岡小良ケ浜から熊町(大熊町熊)を通って大野へ接続する路線が計画された[4]。また、当時川内村から産出される木材を輸送するために、富岡駅まで運ぶ必要があった。このため、上岡村(現・富岡町夜ノ森)周辺に住む但野芳蔵[5][6]を中心とした有志一同により、1907年(明治40年)頃からおおよそ2年に渡り、駅設置の請願がなされた[7]。但野は大正六年七月十五日から有志数人を連れて度々、東京鉄道管理局水戸運輸局[8]や東京の鉄道省へ請願に赴いている。但野、単独でも五十五回、東京へ赴いている[9]。合わせて、当地の憲政会代議士であった半谷清壽の助力もあり、駅敷地の寄付などの五条件を満たすことにより、当地への駅設置が許可された[7]。大正七年十月、許可が下りるまで実に一年三ヶ月の年月を経た。 駅の設置で一番の問題となったのが工費負担と蒸気機関車への水の供給

    夜ノ森駅 - Wikipedia
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    urbansea 2011/05/22
    いい駅舎。常磐線 福島県双葉郡富岡町字夜の森北一丁目