2010年2月19日のブックマーク (2件)

  • 坂のある非風景 愛すれば愛するほど愛し足りない

    存在か当為かという対立がある。「ある」と「あるべき」は同時に助け合いながら現実を出現させる。たしかにあるがままの存在を見ることはなかなかできない。存在は「あるべき」姿という幻想によって私たちの視界に浮上する潜水艦みたいなものだ。 時折、当為を語ることによって自分の価値観を他者に押し付けているのではないかとびくびくしている者を見かける。が、その姿は謙虚に見せかけた植民地主義者の憂いである。価値観を押し付けられる主体とはいったい何か。対象は子供のように、未開の原始人のようにどんなものにも易々と洗脳され信じ込んでしまう愚かものとして思い描かれている。そこには諦められているコミュニケーションがあるが、それ以上に、私の愛によって包まれるべき他者という幻想の支配がある。 「あるべき」を強制することが植民地化を現すことよりも、あるがままを愛し、「あるべき」を禁止するという博愛にこそ植民地化が露出する。こ

    usaurara
    usaurara 2010/02/19
  • 坂のある非風景 「絶望」を忘れない

    もし語られた言葉だったらどれほど傲慢に聞こえただろう、詩の中ではそんな言葉が弱さを装って愛を語ることしかできない。 ふつう、無力であるがゆえに美しい、そう言われたら詩は世界から見捨てられている。個々の詩人に野望があっても、詩誌は野望から遠く離れてしまった。無力に加担し、「見捨てられて行こう」という合言葉が必要なときもある。詩は遅れて生きるものの慰安として場所をえてゆく。 森永かず子は詩に何を求めているのか。人に答えられない問いが私に問いかける。形骸に過ぎない美学としての詩の形式と醜悪であっても私自身の真を描こうとする野望とに引き裂かれながら彼女の詩はこわれる。そのこわれ方が私たちの生き方の不自然さの見事な暗喩だと言ってしまうと、それはありふれている。 おそらく愛を、語ろうとはしていても語ってはいないのだ。愛によって彼女の傲慢な愛が復讐されているかのようだ。愛したいものを愛せず、彼女が否定

    usaurara
    usaurara 2010/02/19