ブックマーク / freezing.blog62.fc2.com (64)

  • 坂のある非風景 愛か詩か

    棒になって夏を駆け下りるさまを思い描く午後があれば、これ以上の暑さを暑さと呼べるだろうか。水の中に留まれば呼吸は気泡にしかない。 ネットに公開される作品はなぜ全滅するのか、という問いを問う必要に迫られていた。公開までにある「手続き」が省略されることによって作者が消え去るというあたりまえな意見を尊重しながら、じつは文責が消されていてその文責の消去が作品を無残なものに変えてしまうのだと語ってみたかった。作者に帰すどうしようもないもの、たとえばコントロールできない言葉の狂いといったものが依然として作品を作品として支えている。 ツイッター上でなされた連詩の無残さが思い出される。楽しくないはずがない。ノイズに形式を付与してそれを詩として掲げるのではなく、すでにそれだけの役をこなすにすぎない形式が詩として調達されたのである。それが楽しくないはずがないし、その楽しみを悲しむことさえだれにも許されない。

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    usaurara 2010/08/08
  • 坂のある非風景 夜の視線の不在が夜を見つめる

    どこかに発見されることを拒んでいるものがあり、そこが「世界の闇夜」と呼ばれるにせよ呼ばれないにせよ、そんな夜を抱えることによってほっとする時間もあった。通過を許さないもの。忘却を許さないもの。たぶん忘れ去ってしまうものと忘れ去ることを拒むものとの間には決定的なギャップがあるのだが、そのギャップは夜の側に属してしまっていて見定めることさえできない。 私と私でないものとを隔てるギャップを私に帰属させることだけがここでは最小の思想だと語っておきたい。神と人とのギャップを人に帰することによって何が生まれたのか。キリストだった。 昼はなぜ自分が昼なのか知らない。その無知を埋めるために夜が生まれる。彼はなぜ自分が昼ではないか、その理由を知っている。 敬愛する南無さんが心筋梗塞で病院にかつぎこまれたらしい。そんな状態にあって一愚さんの健康を案じていて、その視線こそが光によって消される夜の視線だと私は思っ

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    usaurara 2010/03/18
  • 坂のある非風景 彼自身による誰かの声がきこえる

    結ばれるためには離れなければならない。ずっと語ってきたことをこれでもかこれでもかと語るのは、つねにそういう事例に出会うからだった。横断すること、ひとつの詩を何度でもくりかえし横断することだけが私たちに許されていて、その反復だけがラディカルな何かを準備する。意識的な反復だけが現状維持を破壊する危機を招く。 くりかえすが、私が私でしかなくあなたがあなたでしかないときに私たちは結ばれる。だれもが同一化によって共同体が成立するのではない。だれもが同一化を解除されて「ひとそれぞれ」となり孤独となるときに共同体は成り立つ。そうして離れるときにこそ結ばれる。なぜならそのとき私たちの非同一化は、「同一化の代理人」によって場を与えられるからだ。「同一化の代理人」は、私たちが同一化からこぼれ落ち、孤独であったり死と呼ばれるものに寄り添ったりするときに共同体の顔をもって確固とした姿を現す。 目が覚めても同じよう

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    usaurara 2010/03/18
  • 坂のある非風景 愛すれば愛するほど愛し足りない

    存在か当為かという対立がある。「ある」と「あるべき」は同時に助け合いながら現実を出現させる。たしかにあるがままの存在を見ることはなかなかできない。存在は「あるべき」姿という幻想によって私たちの視界に浮上する潜水艦みたいなものだ。 時折、当為を語ることによって自分の価値観を他者に押し付けているのではないかとびくびくしている者を見かける。が、その姿は謙虚に見せかけた植民地主義者の憂いである。価値観を押し付けられる主体とはいったい何か。対象は子供のように、未開の原始人のようにどんなものにも易々と洗脳され信じ込んでしまう愚かものとして思い描かれている。そこには諦められているコミュニケーションがあるが、それ以上に、私の愛によって包まれるべき他者という幻想の支配がある。 「あるべき」を強制することが植民地化を現すことよりも、あるがままを愛し、「あるべき」を禁止するという博愛にこそ植民地化が露出する。こ

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    usaurara 2010/02/19
  • 坂のある非風景 「絶望」を忘れない

    もし語られた言葉だったらどれほど傲慢に聞こえただろう、詩の中ではそんな言葉が弱さを装って愛を語ることしかできない。 ふつう、無力であるがゆえに美しい、そう言われたら詩は世界から見捨てられている。個々の詩人に野望があっても、詩誌は野望から遠く離れてしまった。無力に加担し、「見捨てられて行こう」という合言葉が必要なときもある。詩は遅れて生きるものの慰安として場所をえてゆく。 森永かず子は詩に何を求めているのか。人に答えられない問いが私に問いかける。形骸に過ぎない美学としての詩の形式と醜悪であっても私自身の真を描こうとする野望とに引き裂かれながら彼女の詩はこわれる。そのこわれ方が私たちの生き方の不自然さの見事な暗喩だと言ってしまうと、それはありふれている。 おそらく愛を、語ろうとはしていても語ってはいないのだ。愛によって彼女の傲慢な愛が復讐されているかのようだ。愛したいものを愛せず、彼女が否定

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    usaurara 2010/02/19
  • 坂のある非風景 サイレンが遠ざかっている

    救急車のサイレンが遠ざかっている。遠ざかるサイレンの中で「権力」と「暴力」の不穏な依存関係について書かれた書を開いた。 <権力>はつねに、暴力という汚れた斑点のようなものに支えられていなくてはならない。(略)<軍隊>、<教会>、家族、その他すべての「政治的ならざる」社会組織のなかにおいて、暴力が容認され、有無を言わせぬ従属関係を強いられている様態は、それ自身が何らかの倫理的―政治的な抗争とその結果を「具現化」したものなのである――批判的な分析作業は、これらすべての「政治的ならざる」ないしは「未だ政治に至らぬ」ものの関係を背後から支える見えざる政治権力の働きを、はっきりと識別する必要があるのだ。 こういうことだ。「政治的ならざる」軍隊や教会、学校にある暴力は、そのまま政治的な権力の行使ではないが、その政治的な権力を補完する暴力をそっくりに例示している。「例示」とはなにか。権力へのひめやかな欲

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    usaurara 2010/01/12
  • 坂のある非風景 作品は過大評価を求めつづける

    スターリン政権下のソヴィエトをひとりの患者としてみれば、そのパラノイアの進行度が、まさに外在的な否定を内在的な否定と思いこんでゆく、そういう追い込まれ方として見えてくる。外在的な否定というのは、心のなかで社会主義なんてどうでもいいんだよと思っている、そういう、肯定と見てもいいくらいのあいまいな否定、沈黙であり、内在的な否定とは「社会主義反対」という積極的な、声に出された断固とした反抗を指している。パラノイア患者は、沈黙するものに声を与え、次々に粛清していった。 ここでパラノイアとは、どうでもいいものを決定的な敵勢力として見てしまう強力な傾向であり、沈黙を過大評価する危険のうち最大のものがここに提示されている。 ちょっと前の話だが、ある若者が「彼女ができました」と飲み会の席で語り、その発言が一同のあたたかい揶揄によって受けとめられたということがあった。ところが、その「彼女」は、彼を友だちとさ

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    usaurara 2010/01/09
  • 坂のある非風景 愛される女は憎まれる女を通過する

    拒絶は積極的なアイデンティティへの希求を明かす。反対に、拒絶しないもの、穏やかで、なんでも受容する、寛容で奥ゆかしい演出がつくりだす個性を想像してみたまえ。たいそう立派なだけである。 立派といった倫理的な見かけがたんに「運」にすぎないもので維持されること、これが人類がナチズムやスターリニズムを経験して手に入れた20世紀最大の発見だった。もちろんそれらの出来事を知性によって通過できなかったものたちは、立派な倫理は高い教養や意思の結果であるといった反時代的思想をいつまでも生きるしかない。言っておきたいのは、経験によって通過できないから知性によって通過するのではない。知性によって走査できない出来事は経験できないのだ。 ではこの言葉の半分は自分自身に投げ返されてくる「バカか」という発言はどうだろうか。むしろそれは高貴すぎる。それは男らしく、自分だけを根拠として語るときの傷を見せて立つ。もちろん彼女

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    usaurara 2010/01/09
  • 坂のある非風景 クリスマス・メッセージ

    暗い朝だったが昼には気温があがった。知る季節から感じる季節を分離するために照る日に照らされ吹く風に吹かれて街角から街角をめぐった。そこで街角をはじめて知ったと語りたい。折れる街角で折れずに歩く技術も知ったと語りたい。それほど何もない日は罪深い。何もない日は、消された日付のなかで消された希望と消された憎悪と消された愛の日々のふりをする。 ぼくは探している。思い出せるもののなかを通過する各駅停車となり、眠りと垂直に夜を降りてゆくエレベータとなって。植物の世界しか知らない少女と出会い、その少女の扉がどこにも開かれていないことを知る窓となって。それから、思い出せない風景を横切った飛行機が飛行機雲を残しましたよ。青空は、青空は緑色でしたか。それを遅延の色合いと見ましたよ。緑色を? 緑に見える青色を? 不眠の祈りが呼び寄せる夜はそれほど暗くないだろう。待つ人が祈る人と重なるイブはどれほど暗くないだろう

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    usaurara 2010/01/09
  • 坂のある非風景 私たちに夢の歴史は許されない

    ◇ 部屋の床が抜けるほどを読んで、柳行李いっぱいに、何でもいいから書いた原稿用紙を詰めて、もう入らなくなったら、お前はもう作家だ、と師に云われたことがある。 生来の人嫌いが作家にはなれないと一人決めした私は、師に背いてしまった。 いかに人を嫌いか、というだけで、柳行李に原稿は詰まるのである。 抵抗や防御が、それが抵抗し防御している対象そのものと化してわたしを占有していることがある。書くことへの拒否を書きつづける、といった典型的なパラドクスもそうだが、卑近な例では、ある知人は風邪薬に風邪とそっくりなアレルギー症状がでるし、つい先日、わたしはのど飴がのどに詰まって咳き込んだ。 何を防御しているのか、防御が忘れさせない。嫌悪は嫌悪による執着である。そうしてそんな場合も抜け道は前にしかない。嫌悪自体を嫌悪しなければならないだろう。執着自体に執着するように。女に執着するのではなく女への欲望を欲望し

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    usaurara 2010/01/09
  • 坂のある非風景 消える媒介者、ふたたび

    狂気とは、自然と文化との(したがって動物と人間との)間にある「消える媒介者」だという論を読みながら地下鉄に揺られていた。その移行は連続的ではない。現実を言葉によって組みたてる綜合のまえに、現実を破壊する想像力がある。自然に帰るにしろ文化に帰るにせよ、一度はその破壊を通らなければならない。 昨日はリハーサルではなんのひっかかりもなく空気がまあるく涼しくからだを通り抜けるように踊ることができた。今までのリハーサルで一番気持ちよく、普段は聞こえない音まで聞き、いつもより少し長く空中にいた。 おそらく身体の表現から言葉の表現にいたる移行も連続ではないはずだった。言葉による表現も進化するし、身体の表現も進化する。しかしそのふたつの進化は同期しない。進化する身体表現を、遅れながら、言葉の表現が追っているというふうだ。言葉による表現が身体の表現を補完しようとして言葉はますます詩的になり、飛躍によって一瞬

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    usaurara 2009/10/24
  • 坂のある非風景 救われずして救われる道

    病院では戒厳令が敷かれ、見舞いは一時間以内とかいろいろ規則がでっち上げられ、いかにして病魔と闘い、病人を大事にしているかという広告にインフルエンザが一役買わされている。もちろんインフルエンザも役立ってしまうのだし、役立てばいいし、役立つものはどれも革命的ではない、それだけだと思う。 きっとひとは何かを信じなければ救われることはない。しかし信じるに値するものがない、問題はそれだけかもしれない。救われずして救われるような人生の典型を差し出すことができるかどうか、おそらく思想は、だから文学はそこをめぐっている。 信の対象として偽を与えると宗教になるのではない(それはただの詐欺である)。真を与えようとすると宗教になるのだ。無神論者はいても無神で生きている人は存在しない。ひとつの宗教を信じる者はたったひとつに騙されれば済むのに対し、自分を無神論だと語るものは何にでも騙されている。神を信じる者と無神論

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    usaurara 2009/10/09
  • 坂のある非風景 なぜ醜悪さが美しさの根拠なのか

    ラカンによれば、主人は自らの奴隷の奴隷にすぎない。(少女)は何匹もの鼠の尻尾を手に結び、彼らをつき従えている。捕者である鼠は少女の奴隷にすぎない。そして捕者の死は彼女の死を意味する。つまり、奴隷である捕者との結ぼれが強固であればあるほど、少女は自分の奴隷に自分の死を委ねる寄生者となってしまう。 ここには病原体の人間への寄生というより、人間による自然への寄生がありえない具象化を経て矮小化されている。矮小化はいつも別の意味を書き加える。愛による支配は、その愛に隷属することであり、愛する対象への寄生だと告げているのだろうか。そうして少女は、愛によって自分が愛する者を噛みちぎってべてしまうことによって自分の死を選ぶほかない、それだけが愛の成就だと告げているのだろうか。 ちょうど片手に五匹ずつ、十匹の鼠が結ばれている。飼育ではなくペットでもない。共生的な寄生、鼠たちは彼女の独立した指だった

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    usaurara 2009/10/09
  • 坂のある非風景 あなたへの句点

    始点はいつもそこにあるのに 始めれば結ぶしかない小さな句点を コトリともしない 夜の底に落としたまま 鬼門の磁場をほぐすように 初夏の中に手探りをする 一面に咲いた宿根のスズランが 「幸せの訪れ」を運ぶ花なら 時を戻してもらう代わりに これからを変えられる あなたへの句点を一緒に探してほしい 沈黙にさえ句点は打たれる。これはロレンス・ダレル『アレクサンドリア・カルテット』によって教えられた。私たちの生の無変化を救うために、句点は、リズムを与えることによって、逆に私たちの生の無変化を証明しようとしているのか。もちろんどんなことも証明してくれれば救われる。 句点はどこからやってくるのか。もしも内部からやってくるとしたら、呼吸とか鼓動といった自律的なリズムからだろうか、それとも無意識にある文法という遺伝された制度からだろうか。でももし外からやってきたとしたら? これは句点の隠されている場所を知ら

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    usaurara 2009/09/10
  • 坂のある非風景 冷えてゆく美しさ

    水の音が漏れている シンクをピカピカに磨けば 羅刹がわたしの骨に火をつけてゆく 仄暗い夜明けである そればかりか清らかな匂いとともに 猛追してきたのは二月八日の雨だ 中足骨 足根骨 腓骨 脛骨 排水溝にはためきながら落ちてゆく 金魚の紅いひれがわずかに見えたような気がするが 罠 なのだ 最初、テキストのない、作者自身による朗読としてこの詩と出会った。音楽として届けられたそれは「古典的」に聞こえた。そして「聞こえる詩」というものに私が不慣れであることを思った。もし読む詩なら、そこに書かれていない言葉が語る声を行間に読むことができる。では聞こえる詩の行間はいったいどこから届けられるだろう。聞こえない声によって? 聞こえない声を聞く聴覚が必要だ。何かを語っている沈黙と何も語っていない沈黙を聞き分ける耳が必要なのだ。 古典的という印象は、「格調」への寄りかかりからやってくる。それはどれほど自覚的で

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    usaurara 2009/09/06
  • 坂のある非風景 世界は知らない国でできている

    デプレシャンは六十になろうとしていた。知的レベルでは、自分が完全に時代遅れになってしまったことを実感していた。ホモセクシュアルの男たちはもういなくなり、河岸に人影はなかった。自分が最後に勃起したのがいつか思い出せなかった。彼は夕立を待っていた。 やってきたものはやってゆく。きっと自分の身体さえ、つねに他者のように遠ざかっている。 選挙カーが走り続けるのは、立ち止まったときが死であるサメと同じだと思っていたが、渋滞に巻き込まれたときにもっともうるさいことを知った。あるいは、そのうるささが死の正体なのだ。死には、静かな死と静かでない死がある。 なぜ、ときに政権は変わろうとするのか。だれもが変わるまいとしているからである。ナショナリズムが失われているときにこそナショナリズムは進攻する。やってゆくものはやってくる。 福祉、スポーツ、そこに文化的な何かを書き加えてもいいが、それが目標を失った国家の目

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    usaurara 2009/08/30
  • 坂のある非風景 部分的に完全な雨

    ボルヘスの詩文集『群虎黄金』(1972)には「短歌」という数編の五行詩があって、それは翻訳された我が国の短歌に倣って書かれた(と思われる)。中也や立原道造に「ソネット風の詩」があるように、ボルヘスは短歌風の詩を書いたのである。 短歌は、西洋から見れば東洋のある国語に特有の、旧い詩のひとつの形式だと見られているわけだが、たぶん現在のわが国も同じ見方をしている。現在の短歌は、短歌風の詩にすぎないし、それは何かを短歌に付け加えているわけでも短歌を解体しているわけでもない。外からやってきて外に留まっている何かにすぎない。 山のいただきの 高い 庭をひたす月 こがねの月 はるかに美しい 影に 触れる きみのくちびる 「(スペイン語の)原詩が模している五七五七七の形式で訳し戻せれば(?)なお良いと思うが」と訳者である鼓直が書いているが、訳し戻されない(?)ところに思いがけず「短歌」が出現している。音数

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    usaurara 2009/08/27
  • 坂のある非風景 恋愛恐怖症

    女の携帯電話の番号が書かれた愛らしい便箋の切れ端を渡された。斜めに崩れた字で書かれた数字とアルファベットを眺めながら、かわいいお馬鹿さんのエンマ・ボヴァリーの死を思い出していた。せっかくの好意を無下にして申し訳なく、自分の不甲斐なさに呆れながらも、駅のゴミ箱に紙片を捨てた。極上の恋愛小説を読んだ者は恋愛を恐れるようになるのかもしれない。 痛々しいマダム・ボヴァリーに出会って、その書評の最後にさらに別のボヴァリーについて書かれた部分に目を奪われた。ボヴァリーを「かわいいお馬鹿さん」と見るときの視線は、彼女を籠絡し破滅させる登場人物と同じ視線だよと思いながら、なぜ駅のゴミ箱なんかに、と思った。その捨て方こそこの小説の登場人物がボヴァリーに与えた仕打ちと同じじゃないのか? いやたぶん同じではない。触れて去ることと触れずに去ることにはきっと決定的な違いがある。ただその違いが私にわからないだけなのだ

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    usaurara 2009/08/05
  • 坂のある非風景 脆弱さを脆弱さの表現に返そう

    有責感を掻き立てるというのが、サルトル流の、したがって大江健三郎流のアンガージュマンだったことを思い出さずにはいられない。社会悪を知る知力があって、その社会悪に何もなさないのは悪に加担しているのだと彼らは語った。有責感が有責を作り出していた。 そこでは罪意識が罪の源泉である。罪意識が、欲望をあきらめたことに対する超自我による復讐である以上、罪意識はかならず私の裏切りを告発していた。超自我は有罪だけを確実に裁く完全な法だった。したがってインテリゲンチャとは、社会悪を知る、そして社会参加を余儀なくされた特別な階級を意味するのではなく、まんまとその罪意識の円環に閉じ込められた者たちを指していた。 よくわからないのは村上春樹などが、遅れながらやはりその社会参加思想を歩んでいるということだ。それもすでに全体主義的な円環に閉ざされているということではないだろうか。そこでは無辜の傍観者といったものは許さ

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    usaurara 2009/08/05
  • 坂のある非風景 なぜ奴隷は不死なのか

    たとえば「私」という出来事。それもほとんど思い出されることがない事件であり、ふと思い出してみるものの、次の瞬間には失われる、まるで夢のような出来事だ。では、私が私から失われているとき、いったい私は誰なのか。「観察者としての私」抜きの私こそが、私の基的な、現実的な存在様式であるらしい。 私は、昼ドラのように毎日毎日私によって録画されているのに、録画する私はそれを殆ど見ていない。しかも録画している私を録画するものはどこにもいない(そのとき最初の録画内容は失われている)。私を見る私はいても、私を見る私を見る私はどこにもいないのだ。 「私を見る私を見る私」の不在は「私を見る私」を絶対化する。監視するものの不在が、たった一人しかいない「メタ私」を独裁者にしてしまう。私だけの独裁者が私だけの奴隷たちに語りかける。私たちについて何も知らない「私を見る私」。そのくせその独裁者は、自分の奴隷たちを、もっと

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    usaurara 2009/07/26