別府駅前の油屋熊八像 伊予国宇和島城下(現愛媛県宇和島市)の裕福な米問屋の長男として生まれ、家業を継いで妻ユキを娶る[1]。1888年(明治21年)には27歳で宇和島町議に当選。30歳の時に大阪に渡って米相場で富を築き、別名「油屋将軍」として羽振りが良かったが、日清戦争後に相場に失敗して全財産を失う。35歳の時に別府に住む亀井タマエという女性に妻の身を託しアメリカに渡る[2]。アメリカを放浪の上、現地の教会でキリスト教の洗礼を受けた後、約3年滞在。帰国後、再度相場師となるがうまくいかず、1911年(明治44年)妻を頼って別府を訪れる。 別府では、1911年(明治44年)「旅人を懇ろにせよ」(旅人をもてなすことを忘れてはいけない)という新約聖書の言葉を合言葉に、サービス精神の実践として亀の井旅館[3]を創業[注 1]。また1921年(大正10年)、由布院金鱗湖畔に賓客をもてなすための草庵(現