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ブックマーク / www.nishinippon.co.jp (46)

  • 「優しくて立派な人」が非情決断 沖縄戦司令官の孫、探し続ける答え | 西日本新聞me

    足運び平和教育に力 「優しくて立派な人」と聞いていた祖父はなぜ、住民を戦闘に巻き込む非情な決断を下したのか-。75年前の沖縄戦で旧日陸軍第32軍を率いた牛島満司令官(1887~1945)の孫、牛島貞満さん(66)=東京都=はその答えを探すため、沖縄に足を運び続ける。「過去に目をつむるのではなく、事実を未来に生かす。それが祖父と1文字違いの名を持つ孫の宿命と思っている」。沖縄戦体験者の証言に耳を傾ける中で、あの戦争の現実が見えてきた。 祖母の家の応接間には、軍服姿の祖父の大きな写真が飾られていた。祖父が自決した日と伝わる6月22日には一家総出で靖国神社を参拝していたが、中学2年からはついて行くのをやめた。文献を読んで沖縄戦や司令官としての祖父を知り、周囲の評価とのギャップに疑問を抱くようになっていた。祖父は沖縄島南部へ撤退し、持久戦を続ける決断をした。その結果、多くの住民が犠牲となった。

    「優しくて立派な人」が非情決断 沖縄戦司令官の孫、探し続ける答え | 西日本新聞me
    vox_populi
    vox_populi 2024/07/07
    「牛島満司令官の孫、牛島貞満さん(66)」「孫で名前に「満」と付くのは貞満さんだけ」「「牛島満の命令で犠牲になった人の子孫と沖縄戦を共有し、平和を求め続けることはできる」」。牛島さんの講演を以前聞いた。
  • 入管の映像開示求め署名活動開始|【西日本新聞me】

    vox_populi
    vox_populi 2021/07/07
    署名運動のURLは次のとおり(http://chng.it/9N9hfNvWCp 、この問題で支援を続けてきた団体「START」のWebページhttps://start-support.amebaownd.com/ に掲載されていた)。署名運動のURLぐらい、Web記事では載せてほしい。
  • 工藤会本部跡地活用「福祉施設」開設へ意見交換 北九州市 | 西日本新聞me

    特定危険指定暴力団工藤会の部事務所跡地(北九州市小倉北区)を買い取ったNPO法人「抱樸(ほうぼく)」は19日、福祉の拠点づくりに向けたシンポジウムを市内で初めて開き、住民ら約150人が参加した。シンポジウムは今後5回ほど開いて、来年夏にも基計画をまとめる。福祉施設は2025年に開設する方針。 部事務所は2月に解体が完了し、抱樸が4月に跡地約1750平方メートルを購入。「希望のまちプロジェクト」と銘打ち、障害者など日常生活が難しい人を幅広く受け入れる「救護施設」の整備を検討している。 この日は、プロジェクト顧問で、福祉政策に詳しい村木厚子・元厚生労働事務次官が講演。「社会に頼れる場所があれば、みんなが安心して生きていける」と語り、「伴走型支援」の考えが重要と訴えた。 北橋健治市長らを交えたパネルディスカッションもあり、抱樸の奥田知志理事長は「支援の制度や枠組みにとらわれず、誰も取り残さ

    工藤会本部跡地活用「福祉施設」開設へ意見交換 北九州市 | 西日本新聞me
    vox_populi
    vox_populi 2021/03/29
    「特定危険指定暴力団工藤会の本部事務所跡地(北九州市小倉北区)を買い取ったNPO法人「抱樸」は19日、福祉の拠点づくりに向けたシンポジウムを市内で初めて開き、住民ら約150人が参加した」。
  • 【中村哲という生き方】㊦「ナカムラ学校」魂 脈々と | 西日本新聞me

    中村さんを支援する福岡市の非政府組織(NGO)ペシャワール会によると、専属運転手は「現地スタッフの中でも重要なポジション」。安全確保に大きく関わり、中村さんの側近として事実上の幹部候補生でもある。 ザイヌッラさんは2007年に中村さんが率いる現地のNGOPMS」(平和医療団)に参加した。生真面目な仕事ぶりと明晰(めいせき)な頭脳が認められ、数年後に抜てきされた。 「若くして父を亡くしたこともあり、先生を実の父親のように尊敬していた」と同会の古参会員は話す。記者が現地を訪れた5年前も、常に中村さんの傍らに控え、言葉を聞き漏らすまいと腰をかがめるようにして話を聞いていた。重機には中村さん一人でも乗り降りできるのに、いつも体を支えた。 ◇   ◇ 「大方針は現地と一体となり、苦楽をともにすること」。その言葉の通り中村さんは献身的に行動し、住民たちとの絆を築いた。 1984年に赴任したパキスタン

    【中村哲という生き方】㊦「ナカムラ学校」魂 脈々と | 西日本新聞me
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    vox_populi 2020/12/05
    「「大方針は現地と一体となり、苦楽をともにすること」。言葉の通り中村さんは献身的に行動し、住民との絆を築いた」「10年には住民の要望を受け、用水路のそばにモスクとマドラサ(イスラム神学校)を建てた」。
  • 【中村哲という生き方】㊥ニホンオオカミと呼ばれ | 西日本新聞me

    ラジオでの対談をきっかけに交流があった。晩年には農業に取り組み、政治を憂える発言でも知られていた菅原さんは「弱きを助けて強きをくじく『侠気(きょうき)』の人」と中村さんにほれ込んでいた。アフガンでの活動を紹介する記録映画のナレーションも無報酬で担った。 絶滅したニホンオオカミに例えられた中村さんはどう答えたか。「いやあ、自分は吠えるんじゃなく、かみつくんですよ」 ◇   ◇ 現実に、かみついた場面がある。 米中枢同時テロが起きた2001年。首謀者をかくまっているとして米国がアフガン攻撃に動く中、自衛隊による後方支援を可能にする特別措置法案が国会で審議された。特別委員会に参考人として出席した中村さんは断じた。 「自衛隊派遣は有害無益でございます」 中村さんは折に触れて、アフガン人の親日感情を紹介していた。日について連想されるのは日露戦争とヒロシマ、ナガサキ。列強に伍(ご)し、原爆の悲劇から

    【中村哲という生き方】㊥ニホンオオカミと呼ばれ | 西日本新聞me
    vox_populi
    vox_populi 2020/12/05
    「俳優の故菅原文太さんは(中略)「弱きを助けて強きをくじく『侠気』の人」と中村さんにほれ込んでいた」。米軍のアフガン空爆の頃にペシャワール会の存在を知ったが、歴史家の故阿部謹也氏が当時既に会員だった。
  • 【中村哲という生き方】㊤「誰もが行きたがらぬところへ」 | 西日本新聞me

    無医地区の渓谷に診療所を開こうと、隣国パキスタンから峠を越えて調査を続けていた時期のこと。傷は浅く、持ち歩いていた医療器具で自ら縫った。「かすり傷。大したことじゃなかったですね」 中村さんは1984年にパキスタン北西部ペシャワルの病院に赴任。その後、戦乱に追われたアフガン難民の苦境を知り、両国で診療所を展開していく。 転機は、2000年にアフガンで起こった大干ばつだった。乾きと飢えの犠牲者の多くは幼児。診療所の列を待つ間に腕の中で子どもが息絶え、ぼうぜんとする母親の姿は珍しくなかった。「もはや治療どころではない」。やむにやまれず土木の勉強を一から始め、00年に井戸を、03年からは用水路を掘り始めた。 アフガンの治安は最悪だ。安全確保には細心の注意を払ってきた。近年は原則として宿舎と作業現場を往復するだけ。車で移動中に少しでも渋滞したら、ライフルを持つ護衛が荷台から飛び降りて交通整理を行った

    【中村哲という生き方】㊤「誰もが行きたがらぬところへ」 | 西日本新聞me
    vox_populi
    vox_populi 2020/12/05
    「信念は「誰もが行きたがらぬところへ行け、誰もがやりたがらぬことを為せ」。リスクをなくすのは不可能とも言える。「まぐれで生き延びてきたようなものです」。記者が現地を訪れた5年前、にやりと笑った」。
  • 「誰も行かぬなら」背中押した中村哲さんの言葉 ホームレス支援者の思い | 西日本新聞me

    アフガニスタンで凶弾に倒れた中村哲医師(73)の言葉は、時に迷いながらも信念を持って活動する人たちの背中を押した。ホームレスを支援するNPO法人「抱樸(ほうぼく)」(北九州市八幡東区)の奥田知志理事長(56)もその一人。新米牧師だった約30年前に出会った際、嫉妬と尊敬の念が入り交じる複雑な感情で接したことを鮮明に覚えているという。舞台は違えど、中村さんの活動に同じ理念を感じてきた奥田さんは10日、「この悲しみを憎しみに変えてはいけない」と訴えた。 中村さんが現地代表を務める福岡市の非政府組織(NGO)「ペシャワール会」が発足した1983年、関西学院大1年だった奥田さんは大阪の釜ケ崎でホームレス支援を始めたばかり。中村さんと初めて出会ったのは90年、北九州市八幡東区の東八幡キリスト教会に赴任した時だった。 中村さんも同じキリスト教徒。同教会の信徒たちがペシャワール会を支援しており、中村さんは

    「誰も行かぬなら」背中押した中村哲さんの言葉 ホームレス支援者の思い | 西日本新聞me
  • 「アフガンも沖縄も戦争の犠牲」 中村哲さん、沖縄平和賞の礎に | 西日本新聞me

    アフガニスタンで凶弾に倒れた福岡市の非政府組織(NGO)「ペシャワール会」現地代表の中村哲医師(73)の活動は、沖縄戦を教訓に国際平和・非暴力を願う心を世界に伝えようと沖縄県が創設した「沖縄平和賞」の礎にもなっていた。同賞委員会会長を務める玉城デニー沖縄県知事は、11日に営まれた告別式に寄せた弔電で「中村先生の優しい笑顔と強い意志を忘れない」という県民の思いを届けた。 ペシャワール会は2002年、第1回の沖縄平和賞を受賞した。17年前、沖縄県名護市で行われた授賞式で、中村さんはこうあいさつした。「米軍から空爆を受けたアフガンと米軍基地を抱える沖縄のコントラストは圧倒的。沖縄の抱える矛盾は日の矛盾であり、米軍に協力しないと生き延びられない事情は、かの地も同じ」。翌年、副賞として受けた賞金の一部でアフガン山岳地域に困窮者のための診療所を開設。中村さんは「アフガンも沖縄も戦争の犠牲となり、非戦

    「アフガンも沖縄も戦争の犠牲」 中村哲さん、沖縄平和賞の礎に | 西日本新聞me
  • 中村哲さん、アフガンに分骨へ|【西日本新聞ニュース】

  • 運転手、護衛に補償や見舞金 ペシャワール会が方針 | 西日本新聞me

    拡大 今後の活動などを説明するペシャワール会の村上優会長(左)とジア・ウル・ラフマン医師=12日午後4時ごろ、福岡市中央区(撮影・帖地洸平) アフガニスタンで用水路建設事業を行う福岡市の非政府組織(NGO)「ペシャワール会」の村上優会長は12日、亡くなった中村哲医師の後を継ぎ、同会が支援する現地のNGOPMS」(平和医療団)の総院長に就任した。12日の記者会見で明らかにした。 ペシャワール会はPMSを主に資金面で支援しており、中村さんはペシャワール会の現地代表とPMSの総院長を務めていた。村上会長は治安状況を踏まえた上で、早ければ年内にもアフガンの首都カブールか周辺国でPMSのスタッフと会い、事業継続の方針を伝える考え。 また、中村さんと共に死亡したPMS職員の運転手と、州政府から雇われていた護衛に対して補償や見舞金を支払う意向も明らかにした。中村さんの遺族からペシャワール会に寄付された

    運転手、護衛に補償や見舞金 ペシャワール会が方針 | 西日本新聞me
  • 「骨は緑に変わった砂漠に」中村哲さん1年前に託す 現地にも埋葬へ | 西日本新聞me

    骨は、用水路で緑に生まれ変わった砂漠に埋めてほしいー。アフガニスタンでのかんがい事業のさなかに凶弾に倒れた福岡市の非政府組織(NGO)「ペシャワール会」の中村哲医師(73)は1年前、右腕と信頼する現地スタッフにそう打ち明けていた。過酷を極めた建設作業の末に美しい農場や公園に姿を変えた一画は、中村さんが特に愛した場所。来日したアフガン人スタッフは遺骨の一部を持ち帰り、現地に埋葬する考えだ。 12日に福岡市内のペシャワール会事務所で会見したジア・ウル・ラフマン医師(64)は「『私がもし死んだら、骨はガンベリに埋めてほしい』と中村先生はおっしゃっていた」と話した。 「ガンベリ」とは、アフガン東部にある砂漠の名前。幅4キロ、長さ20キロにわたり、地元では「死の谷」と恐れられてきた。「ガンベリのように喉がカラカラだ」という言い回しもあり、用水路を通すと中村さんが言うと、周囲は冗談だと受け止めていたと

    「骨は緑に変わった砂漠に」中村哲さん1年前に託す 現地にも埋葬へ | 西日本新聞me
  • 「脅迫受けている」とアフガン人

    vox_populi
    vox_populi 2019/12/14
    「同じく犠牲となったアフガン人ボディーガードが事件数日前、父親に「事業をやめろと脅迫を受けている」と語っていた」「内務省は襲撃犯の動機について「用水路を巡る水利権」が関係しているとの見方」。
  • 「先生、ありがとう」参列者が涙 中村哲さん告別式に1500人 | 西日本新聞me

    「哲ちゃんさよなら」「先生、ありがとう」。福岡市で11日に営まれた非政府組織(NGO)「ペシャワール会」現地代表で医師の中村哲さん(73)の告別式。「人の幸せとは三度のご飯がべられ、家族が一緒に穏やかに暮らせること」と説き、貧者に寄り添い、医療支援や用水路建設に奔走してきた「アフガンの英雄」に、参列者は涙に暮れながらその偉業をたたえ、最後の別れを惜しんだ。 中村哲さんの告別式では、長く深い親交を重ねてきた人々が在りし日の姿を振り返り、涙とともに追悼の言葉を絞り出した。約1500人の参列者からはおえつが漏れ、やり場のない悲しみと喪失感が会場を包んだ。 アフガニスタン国旗が掛けられたひつぎを囲むように白い菊で彩られた祭壇。家族が選んだ遺影は穏やかな笑顔を浮かべていた。 同会の村上優会長(70)は「今の私には先生の死を受け入れる余裕はありません」と追悼の辞を涙ながらに切り出し、「先生の尊い犠牲

    「先生、ありがとう」参列者が涙 中村哲さん告別式に1500人 | 西日本新聞me
  • 【動画あり】2008年に息子が犠牲…両親の誓い 中村哲さん告別式 | 西日本新聞me

    「和也の時も同じだった」。ペシャワール会の元スタッフで2008年に現地で拉致、殺害された伊藤和也さん=当時(31)=の父正之さん(72)、母順子さん(67)=静岡県=は、中村哲さんのひつぎを乗せた車が斎場を出る際に起きた大きな拍手に11年前の情景がよみがえったという。 息子の遺志を継ぐため、基金を創設。寄せられた約3千万円からアフガニスタンに農業機械や文房具を贈り、モスク(イスラム教礼拝所)の寄宿舎を建てた。悲劇を繰り返させないー。願いはかなわなかったが2人は希望を捨てていない。 かつて息子がアフガンで一緒に働いた人たちと斎場で会い、アフガンに平和が訪れた後に渡航することを誓い合った。順子さんは言う。「微力だが、先生と和也が眠るアフガンに行けるよう頑張りたい」 (四宮淳平)

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  • 【動画あり】「命の水に救われた」 中村さんに感謝、参列者の声 | 西日本新聞me

    ■アフガニスタン復興の支援活動を行う認定NPO法人「カレーズの会」(静岡市)理事長でアフガン出身の医師レシャード・カレッドさん(69) 1980年代、パキスタン・ペシャワルの難民キャンプで初めて会った。今年10月、アフガン政府から名誉市民権(市民証)を授与された時、先生は「やっと私はアフガニスタン人になれた。みんなと同じ仲間になれます」と声を弾ませていた。先生が活動するナンガルハル州を訪れたが、アフガン人が用水路の管理や保守に真剣に関わっている姿に感動した。お互いに励まし、相談し合う兄貴のような存在。アフガンのみんなも「希望をかなえてくれるおじさん」との意味を込め、「ムラドおじさん」と呼び尊敬していた。 ■西南学院中の同級生で福岡市の日下部恭久さん(73) 哲君は生前、「憲法9条は遠く感じていたけど、アフガンに行って、日戦争をしない憲法を持っていることの大切さを知った」と話していた。武

    【動画あり】「命の水に救われた」 中村さんに感謝、参列者の声 | 西日本新聞me
  • 「父は行動しか信じなかった」中村哲さんの生き方、刻む長男 | 西日本新聞me

    学んだことは、行動で示すー。中村哲医師の告別式で長男健さん(36)は時折声を震わせながらも、故人を思わせるとつとつとした口調であいさつした。危険な異郷で大勢の命が懸かった事業に取り組む日々の中でも、家族をいつも大切にしてくれた父。他人を思いやること、懸命に物事に臨むことの意味を背中で教えてくれた父。家族だけに見せた哲さんの素顔と残された教えが、参列者の心に刻まれた。 「最初に申し上げたい」。報道陣に公開された文面や参列者によると、健さんはまず、哲さんと共に凶弾に倒れた運転手と護衛を追悼し「申し訳ない気持ちでいっぱい」と頭を下げた。さらに、両国民や政府、事件後にさまざまな配慮を受けた国や企業などへ感謝し「父が命がなくなってもなおアフガニスタンで活動ができるのも皆さまのおかげです」と述べた。 昆虫や自然を愛した哲さん。活動の原点もパキスタンとアフガン国境の登山だった。家ではいつも庭の手入れに励

    「父は行動しか信じなかった」中村哲さんの生き方、刻む長男 | 西日本新聞me
  • ペシャワール会「前向く」 中村哲さん告別式で誓う | 西日本新聞me

    アフガニスタンで殺害された福岡市の非政府組織(NGO)「ペシャワール会」現地代表の中村哲医師(73)の告別式が11日、同市中央区の斎場で営まれた。会によると、全国から約1500人が参列。戦乱と干ばつで荒廃したアフガンやパキスタンで35年にわたって医療活動やかんがい事業を続け、大勢の命を救ってきた故人の遺徳をしのんだ。香典は全額、会に寄付してアフガン復興に充てる。 告別式は家族とペシャワール会による合同葬で、喪主は長男健さん(36)、葬儀委員長は村上優会長(70)。会や参列者によると、祭壇には数年前に現地で撮影された遺影が飾られ、ひつぎにはアフガンの国旗がかけられた。中村さんと共に殉職した運転手と護衛らの遺影も飾られた。 参列者が黙とうをささげた後、女優吉永小百合さんのナレーションで中村さんの取り組みを紹介する映像を上映。追悼の辞で、村上会長は長きにわたる中村さんとの歩みを振り返りながら「先

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  • 「情の大切さも教えてくれた」中村さん、“教え子”に生き続ける意志 | 西日本新聞me

    国籍や宗教、あらゆる立場を超えて集まった人々の拍手に見送られた中村哲さん(73)のひつぎを担いだ人々の中には、かつてアフガニスタンで寝を共にした日人スタッフの姿もあった。「生きる上で大切なことを教えてもらった日々は宝物」。危険と隣り合わせの現地で皆の命を守るため、仕事には一貫して厳しかった中村さん。その行動と言葉の一つ一つは、全国の「教え子」の中に確かに生き続ける。 「アフガンに命を懸けた先生のひつぎを担がせていただき、当に光栄でした」。斎場の沿道まであふれた参列者の思いも背負った出棺の時。2005年から約6年間、ペシャワール会スタッフとして働いた杉山大二朗さん(44)=福岡県福津市=の頬に、何度も涙が伝った。 しかられてばかりだった。現地では植樹や水やり、かんがい工事に使う地図の作製などを任された。そのたびに「大二朗、遅い」「はよせい」。それでも根気強く、そばに置いてくれた。現地の

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  • 中村哲さんの足跡たどる 特設サイトを準備中 | 西日本新聞me

    西日新聞は、アフガニスタンで凶弾に倒れた福岡市出身の医師中村哲さんの足跡を残し、志を受け継ぐ特設サイトの準備を進めています。 中村さんの記事を紙が初掲載したのは1983年5月18日付夕刊。<パキスタンへ救援医療 青年医師の夢が実現>の見出しで「10年以上は腰を据え、病気の治療と予防に役立ちたい」と語る36歳の中村さんの決意を伝えました。 特設サイトには、こうした過去の記事や写真のほか、動画や関係者が寄せる中村さんへの思いなども収録予定。活動を継続する福岡市の非政府組織(NGO)「ペシャワール会」への支援にもつなげます。 特設サイト開設まで、紙ホームページ内のコーナー「追悼・中村哲医師 その歩み」で、関連記事や中村さんの寄稿連載「アフガンの地で」などを読むことができます。

    中村哲さんの足跡たどる 特設サイトを準備中 | 西日本新聞me
  • 中村哲さん告別式、千人超が参列|【西日本新聞ニュース】