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ブックマーク / monkokugo.blog.fc2.com (2)

  • 国語科教員の部屋 文学雑誌の休刊

    岩波の『文学』が休刊するのだとか。この雑誌は今の勤務校に入ってきているので、ちょくちょく読んでいました。 『解釈と鑑賞』と『解釈と教材の研究』も休刊になって早5年以上経つんですね。 休刊にはなってはいないものの、国文学や国語学系の雑誌が販売元を変えて発刊されているものもあります。 この原因を単なる社会の人文系軽視という文脈の中でしかとらえていない研究者がいるとすれば、この流れは当然といえば当然なのではないかと思います。 こうなる前にもっと研究者たちは「この小説のこういうところが面白いんだ!」とか「こんな風に教室で扱ってもいいのではないか」という提言をもっとしていくべきだったのではないかと思うのです。 研究者の中には、自身の研究成果がどこで活かされているのか、活かされていけるのかを自覚的に発信している人もいますが、多くの場合はそうではないように感じます。 僕などは文学研究も語学研究も、それを

  • 国語科教員の部屋 「アクティブラーニング」の欺瞞

    先日、アクティブラーニングに関する研修がありました。もううんざりというか、げんなりというか。 今求められている学力なるものがいったいどういうものなのかによって、教育法は変わります。 近代に始まる教育学というのは、その主体は実は授業者です。教え育てるという発想が教育学の根底にあります。そしてそれは社会にどういう人材を送り出していくのかによって変わるはずです。 しかし、アクティブラーニングを推進する側は、教わり育てられる学習者を主体とします。教育と学びというのは、主体の違いとも言えそうです。つまり、これまでの主体(授業者)と客体(学習者)とを入れ替えようとしているのが現状なのだと今のところ理解しています。 研修を受けながら感じたのは、要は大学側が欲しい人材を小中高で作ってくれ、ということでした。これはつまり、大学側が社会に送り出していく人材を、中等教育の段階である程度育てておいてくれということ

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