貧困と空腹にあえいでいた日本国民は、1949年、渡米中の湯川秀樹がノーベル物理学賞を受賞したとのニュースに狂喜し、理論物理学がブームとなるが、世界はその根底で生命科学へと動いていた。焼け跡の東大では、“住人”たいちによる「生物学への転向」をめぐる熱の入った議論が続いていた。ウイルス結晶化の話を知って“物質と生命”が両立するものか悩んだ東大助教授・渡辺格の夢にデカルトが現れて「物質と精神の分離は、キリスト教社会で科学を進めるための方便にすぎない」と語った。 焼け跡の東大 焼け残った東大理学部1号館の一室では南部陽一郎や久保亮五たちが共同生活していた。「魚が手に入れば焼いて皆で食べたが、冷蔵庫もなく、すぐに腐って困った」と南部。戦時中、南部は陸軍技術研究所で電探(レーダー)の研究に参加した。「海軍の進捗状況を盗んでこい」と言われて、母校に小谷達の様子をうかがいに行ったこともある。敗戦後は、東大