さて、ここから先、講演の後半は 言葉の話になっていきます。 吉本さんの得意とするところですね。 ここまでのところで、 近親者や同信者も裏切る、 自分自身も信じることができない、 と書かれていることがわかりました。 それでは、マルコ伝ではいったい 何を信じることができると 書いてあるのでしょう? それは、言葉であると 吉本さんは言っています。 自分自身としてのイエスも信じられない、同胞も信じられない、近親者も信じられない、結局かろうじて残るのは「言葉」ではないかと思われるのです。ぼくには「言葉」という問題が、いちばんひっかかってきたところです。喩というのは、比喩とかたとえとかそういうことですが、(この講演に)「喩としての聖書」という題をつけたのはそういうところなんです。そう考えていきますと、新約書の主人公のイエスというのは言葉にがんじがらめに捕らえられているんです。 吉本さんもここで言及する