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ブックマーク / d.hatena.ne.jp/aureliano (7)

  • 映画を体系的に理解するための7作品 - ハックルベリーに会いに行く

    はじめに最近クリエイター志望の若者と話す機会が多いのだけれど、そこで気づかされるのは、彼らの中に過去の映画(特に80年代以前の作品)を見たことのあるという人が、驚くほど少ないことだ。例えば「キューブリックをどう思う?」と聞くと、「キューブリックって誰ですか?」という答えが返ってくる。「デ・ニーロの映画で何が一番好き?」と聞くと、「見たことがありません」と言われてしまう。「ではきみは、昔の映画を見たことがあるの?」と聞くと、たいていが「テレビでやっていたものくらいなら……」という答えしか返ってこない。 今の若い人の間では、映画を体系的にとらえようという人は少ないようだ。見るのは専ら近年の話題作ばかりで、歴史を辿ってみたり、系譜をひもといてジャンルごと理解しようとする人はほとんどいない。これは、ちょっと由々しき問題だと思わされた。映画は、もう長いこと(20世紀の早い時期から)エンターテインメン

    wata88
    wata88 2009/11/26
    ヒッチコック映画は入れとくべき。体系的に理解するってのは大事なことだなー、できてる自信ないけど。 » 映画を体系的に理解するための7作品 - ハックルベリーに会いに行く -
  • ライトノベルに携わる人々は今一度「風と共に去りぬ」を読むといい - ハックルベリーに会いに行く

    ふとした縁があって、「ゼロの使い魔」という小説を読んだ。 「ゼロの使い魔」はライトノベルだ。ぼくはライトノベルのことについてそれほど詳しくないのだが、この「ゼロの使い魔」はすごく正統的なライトノベルだと思った。非常にオーセンティックな、ライトノベルの鑑のような作品だと思った。その通り、この作品はとても人気があるようで、物語はシリーズ化され、2004年の第1巻刊行以来、すでに13巻が出されている。また、アニメやコミック、ゲームになるなど、他メディアへも大きな広がりを見せている。ぼくが読んだのは、そのムーブメントの端緒となった、2004年に刊行された第1巻だ。これを読んで、ぼくは色々な感想を抱いた。また、この作品を通して、「ライトノベル」というジャンルそのものにも、ある感慨を抱いた。そこでここでは、そんな「ゼロの使い魔」を読んで思ったことや、それを通して抱いたライトノベルというジャンルについて

    wata88
    wata88 2009/05/18
    ライトノベルにおける、読みやすさと小説本来の面白さはトレードオフか?という話。
  • 「フルメタル・ジャケット」は世界最高の映画だ - ハックルベリーに会いに行く

    ぼくは「フルメタル・ジャケット」が好きだ。好きであるだけでなく、これはスタンリー・キューブリックの最高傑作でもあると思う。理由は特にないが、ぼくの感性がそう叫ばせるのだ。あとワイルダー監督もそう言ってた。この映画、前半だけならおそらく映画史上最高の傑作だろうと。そんなわけで、「フルメタル・ジャケット」のどこが素晴らしいのか、見ておくべきシーンを10個あげて、「フルメタル・ジャケット」を見たことがある人にもない人にも、そのすごさを分かるように解説したいと思う。 1.「冒頭の髪の毛をカットするシーンがすごい」映画の冒頭、海兵隊の訓練所に入った生徒たちが頭を丸刈りにするシーンがあるのだけれど、よく考えると、役者たちはみんなこのシーンのために髪を伸ばしてたのだ。そしてこの映画のために頭を丸刈りにした。それがすごい。こういうイニシエーションを通過することによって、役者一人一人にとってのこの映画

  • 映画の見方における「正解」について - ハックルベリーに会いに行く

    とある「崖の上のポニョ」に関する記事の中に、こういう記述がありました。「批評」を、算数ドリルの答え合わせのような、どこかに確たる「正解」があって、自分はそれを知っているかのように作品を「採点」することだと思っている人が多すぎやしないでしょうか。みんなが知っているような「正解」とは違う、自分には思いもよらなかったような新しい答え方を、作品の中に発見する営みのことを批評と呼んだ方が、僕はいいと思います。どきどきのような!ふしぎのような!−「崖の上のポニョ」について− - 宮大人のミヤモメモ これについて、ぼくの思っていることを述べます。 まず、映画の見方について、ぼくの考える映画の見方の「正解」というのは、「どう解釈するか?」ということの中にはありません。「崖の上のポニョ」をどう解釈しようと、それは自由だと思います。その映画の解釈に、一つの絶対的な「正解」があるわけではない。ポニョを可愛いと

    wata88
    wata88 2008/08/19
    作者の意図を基にして作品を見て、「作者の意図を反映しきれてない」と言うことはできても、他人の見方を「作者の意図に反するからダメ」と言うのは間違ってる
  • 人をdisる時にやってはいけない11の作法 - ハックルベリーに会いに行く

    人をdisる時には注意が必要だ誰かをdisる時は、細心の注意が必要だ。生半可にやると、かえって自分がdisられることになる。人の、誰かをdisることに対する眼差しは厳しい。少しでもおろそかなことをすると、とたんにそこを突かれてしまう。人を糾弾したつもりが、かえって自分が糾弾されることになる。これでは末転倒だ。 だから、そういうdisりブーメランを受けないために、おろそかなことは書かないようにする必要がある。最低限のマナーを守って、節度あるdisり記事を書く必要がある。作法というものを守って、読む人の反感を――disりを買わないようにする必要がある。 そこでここでは、そんな「人をdisる時にやってはいけない作法」を分析し、11の項目にまとめてみた。参考にしたのはこちらの記事。ポニョ見たけど、男の師匠も友達もいない宗介と、オタク的に都合の良い「聖なる女性賛美」が強すぎて駄目でした - さて次

    wata88
    wata88 2008/08/19
    私憤を口にしてはならない。一般化してはならない。 ムズいと思ったけど、私憤を一般化しちゃいかんってことでいいのかな
  • id:guri_2氏の映画評に対する率直な感想 - ハックルベリーに会いに行く

    ポニョ見て泣いた。これは宮崎駿が見てきた夢じゃないか。 - Attribute=51 ポニョ見て泣いた。これは宮崎駿が見てきた夢じゃないか。違う。これは「宮崎駿が見てきた夢」ではない。夢を過信してはいけない。エンターテインメントは、あるいは表現というのは、夢とは違うんだ。それは筒井康隆の一連の夢小説群を読めばよく分かる。黒澤明の「夢」を見ても良い。夢は創作物に比較的安易に面白さを貸与できるけれども、それは結局大切な何かには最終的に届かない。夢などというのは誤解だ。いしいひさいちは喝破している。人の夢を聞かされるほどたいくつなことはないと! だから、これを夢などと言ってはいけないし、安易に夢であると思ったり、それを良いことだと思ってもいけない。 深夜の六木に「崖の上のポニョ」を見に行った。久しぶりに映画見て大号泣した。号泣、それも大号泣するというのはおかしい。そういう見方にはならないはずだ

    wata88
    wata88 2008/08/15
    映画の"感想"が映画評に混ざって溢れていることには、僕も憤りを感じる
  • クレタ人には生きにくいはてな村 - ハックルベリーに会いに行く

    クレタ人「クレタ人は嘘つきだ」村民「いいえ、自分で自分を嘘つきだと認められる人は当は正直な人です。嘘つきではありません」クレタ人「……」 クレタ人「クレタ人は嘘つきだ」村民「じゃあおまえの言うことは嘘なのだな? 認めるのだな?」クレタ人「……」 クレタ人「クレタ人は嘘つきだ」村民「おおい、みんな! こいつは嘘つきだから信用ならねえぞ!」クレタ人「……」 クレタ人「クレタ人は嘘つきだ」村民「あーあ、嘘をつくにしてももう少しうまくつけばfromdusktildawnになれたのに」クレタ人「……」 クレタ人「クレタ人は嘘つきだ」村民「そうやって論点をぼかしているのですね、わかります」クレタ「……」 クレタ人「クレタ人は嘘つきだ」村民「それが気かネタか分からないけれど、気だったら痛いし、ネタだとしても面白くない」クレタ人「……」 クレタ人「クレタ人は嘘つきだ」村民「そんなのはクレタ人の世界で

    wata88
    wata88 2008/08/15
    クレタ人・・・・
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